3.青い夜の記憶

 うっ・・・ひっく・・。
 薄暗い部屋に嗚咽の声が響いている。
 オレの目の前では神楽坂が泣いていた。
 これはあの夜・・・半年前の研修旅行最後の夜の記憶?
 オレは呆然と自分の腕を見る。
 初めて抱いた女の子の感触と体温がまだそこには残っていた。
 女の子・・・いや正確にはほんの少し前までは「男の子」だった彼女・・・
 オレにとっては可愛い弟のような存在だった少女・・・
 オレの頭は混乱しその事実をまだ受け止めきれずにいる。
 心の奥底では願望として持っていた筈なのに・・・
 オレはただ彼女を見つめ続けることしかできない。
 神楽坂はオレの顔を涙で濡れた瞳で見つめる。
 元々、赤みを帯びている瞳の色が涙のせいで余計に赤くなっていた。
「・・・何も・・・何も言ってくれないんだね・・・耕治は・・・」
 オレは何かを言おうと口を開きかける。
 だが、オレの喉からは苦しげな息がかすかに漏れるだけで、何の言葉も発することが出来ない。
「・・・酷い人・・・あなたは私の気持ちを知っているはずなのに・・・何も言ってくれない!・・・何も聞いてくれない・・・どうして・・・どうして、あなたはそんなに冷たいの?!」
 神楽坂の静かだが悲痛な言葉がオレの胸を刺す。
「嫌だよ・・・こんなのって嫌だよ・・・」
 神楽坂は両手で顔を覆う。
 オレはただ彼女を見つめることしかできない。
 オレは誰の泣く姿も見たくない。
 それなのに・・・
 でもオレは・・・今のふたりの関係を無くすことが怖かった。
 彼女に「好き」の一言を言うことで、今までのオレ達を無くしてしまうことが怖かった・・・
「・・・意気地無し!」
 神楽坂の声が間近で聞こえる。
 そうだ・・・オレはただの意気地無しだったんだ・・・
 ただ結論を先送りにしてその場を誤魔化していただけなんだ・・・
 それなのに・・・
「弱虫!意気地無し!うそつき!!」
 神楽坂の言葉がオレの頭の中で木霊する。
 オレは両手で自分の頭を抱え込んだ。
 けれども声は収まる気配はない。
 苦しい・・・
 頭が痛い・・・
 いつの間にか額には脂汗が浮かんでいる。
 オレは頭を抱え込んだまま、その場にがっくり膝をつく。
 そんなオレを神楽坂は冷ややかな瞳で見下ろす。 
 暖かさのかけらもない視線・・・
 まるで虫けらを見るような視線がオレの瞳を射る。
 やがて彼女の唇がゆっくりと開かれた・・・
「・・・耕治なんて嫌いだよ・・・」
 嫌いだ・・・
 きらいだ・・・
 キ・ラ・イ・・・
 オレはその瞬間、心臓を冷たい手で捕まれたような気がした。
 それはオレが一番恐れていた言葉・・・
 オレが一番聞きたくなかった言葉・・・
 オレは・・・
 オレは・・・
 
 どんどんどんどんどん!!
 荒々しく扉を叩く音がした。
 オレの意識は急速に現実に戻る。
 目の前を見ると広げられた参考書と、机があった。 
 どうやら寝る前に少し勉強をしようとして、そのまま机の上に突っ伏して寝込んでしまったらしい。 
 暖房を入れたままにしていたせいだろうか?少し喉がひりひりとする。
 オレはまだぼんやりとした頭を軽く二三度振った。
 と、再び激しく叩かれるオレの部屋の扉。
 その音がオレの頭にぐらぐらと響く。
 オレはよろよろと立ち上がると、痛む腰をさすりながら扉を開けた。
 予想どうりそこにはジローが立っている。
 だがその表情は実に余裕がない。
「おい!何してるんだ、もう時間がないぞ!」
 「時間」と言われてオレのぼんやりしていた意識は目覚める。
 そうだ!今日はジローと同じ大学を受ける日じゃないか! 
 オレは慌てて時計に目をやる。
 既に午前8時を5分ほど過ぎている。試験開始は9時半だから、既にぎりぎりだ!
「ヤバイ!」
「何やってるんだよ」 
 オレは慌てて着替えると、ジローと一緒になってバス停めがけてダッシュをする。
 そして今まさに発車しようとしているバスの扉にぎりぎり滑り込んだ。
 取りあえずこれに乗れば何とかなるであろう時間帯だった。
 だがもしこれに乗り損ねていたら・・・想像するだに恐ろしい。
 二人ともしばらくはバスの手すりに掴まりながら、激しい呼吸を繰り返すことしかできない。
「・・・もうこんな目に遭うのは小学校以来だ・・・」
「・・・すまん・・・」
 その昔、オレとジローが一緒に学校に通っていた頃はこんな事は日常茶飯事だったのだが、この年になってまた同じ様な真似をすることになるとは完全に予想外だった。
「明日は絶対起こさないぞ・・・」
「分かった・・・」
 それからオレ達は駅で電車に乗り換える為にバスを降りる。
 念のために時刻表を確認してみたが、充分試験開始時間には間に合う算段だ。
 オレ達はほっと胸をなで下ろす。
 と、突然背後から「耕治さん?」と懐かしい声がオレを呼んだ。
 俺が振り返るとそこには、大きなくりくりとした瞳を持った小柄な少女が立っている。
「美奈ちゃん」
 懐かしい顔を見て、自然とオレの顔にも笑みが浮かぶ。
「あ、やっぱり耕治さんだったんだ!お久しぶりです」
 美奈ちゃんは、ぺこりと頭を下げた。
 それに連れて、短めに切りそろえた髪と大きめのリボンが揺れる。
 ただ半年前の彼女とちょっと印象が異なるのは、学校の制服を身につけているせいだろうか?あるいはこの半年の間に美奈ちゃん自身が成長したのかもしれない。
「美奈ちゃんも元気そうで良かったよ。それと日野森は元気?」
 日野森というのは美奈ちゃんのお姉さんに当たる、日野森あずさのことだ。厳密に言えば美奈ちゃんも姓は「日野森」なのだが、どうも前からの癖でオレは彼女たちのことをこう呼んでいる。
「ええ、元気ですよ。でもあずさお姉ちゃん、今は受験で大変みたいですけれど・・・あっ、そう言えば耕治さんも受験生でしたね」
「実は今日も試験なんだけれどね・・・」
「ああ、それで・・・」
 と美奈ちゃんは今日の偶然の再会を納得する。
「でも・・・耕治さん、あれ以来キャロットへ来てくれないですよね・・・美奈ちょっと寂しかったんですよぉ・・・涼子さんや葵さん、つかささん達もみんな会いたがっているのに・・・」
「・・・ごめんね・・・オレの方も色々と忙しくてね・・・」
「・・・そうですよね・・・美奈の方こそ、わがまま言っちゃってごめんなさい」
 ちょと涙ぐみそうな美奈ちゃんにオレは胸が少し痛む。
 実際の所、受験というのは口実で、本当はオレの方がお店に行くのを避けているのだから・・・
「・・・ところで、耕治さん、そちらの方は?」
 美奈ちゃんは興味津々の瞳でジローの方を見る。
「ああ、コイツね・・・オレの従兄弟のジローだよ。今日、同じ学校を受けるんだ」
「そうなんですかぁ」
「初めまして、美奈ちゃん」
 と、にっこりとするジロー。
「あっ、こちらこそよろしくです。ジローさん」
 といった美奈ちゃんの頬はほんのりと赤い。
 何となくその様子が微笑ましくて、オレの口元にも笑みが浮かぶ。
「ところで、・・・そろそろ電車が来るぞ」
 オレはジローに言われて時計に目をやる。たしかにそんな頃合いだ。
「ごめん、美奈ちゃん。オレ達そろそろ行かないと」
「えっ、そうなんですかぁ・・・」
 美奈ちゃんは心底残念そうな顔をする。
 でも次の瞬間にはにっこりと笑みをオレ達に向けてくれた。
「美奈の方こそ今日はお忙しいのに呼び止めてしまってごめんなさい。お二人とも受験、頑張って下さいね」
「大丈夫だよ、美奈ちゃんみたいに可愛い子に応援されたら、絶対合格できるって」
 と、ジローに言われて美奈ちゃんは耳まで真っ赤になった。
 あっけらかんとこう言えるのは初対面の人間の強みだろうな、とオレは内心苦笑する。
「そ、そ、そ、そんな・・・」
「じゃあね、美奈ちゃん」
「美奈ちゃん、またね」
 オレ達は手を振る美奈ちゃんに見送られながら、ホームへと向かった。
「・・・美奈ちゃん、いい子じゃないの・・・」
「うん。あの子を嫌いになれる男はまず居ないよ・・・」
「お前、ちょっと後悔していない?」
「どういう意味だ?」
「いや、別に・・・」
 ととぼけるジローをオレは横目で睨んだが、内心ぎくりとしたのは事実だ。
 だがそれよりも何よりもオレの心の中では今朝、夢の中で聞いた神楽坂の声が今でも響き渡っている。
「オレは意気地なしだったんだ・・・」

 火曜日の夕方、私は一人、当てもなく街を歩いていた。
 既に高校を中退し、大阪へ行くのが間近に迫ってきた今、私には何もなすべき事がないから、本当にぶらぶらとしている。
 こんなにのんびりしているのは、ここ数年来無かったことだろう。
 いつもいつも私は何かに追われるように、せっぱ詰まった心境で過ごしていたのだから。
 今になって思えば本当に余裕がなかったんだな、と振り返ることが出来る。
「もう来週には大阪なんだ・・・」
 わざわざ口に出してみてもいまだに実感が湧かない。
 もう今週の土曜日、2月14日は私の旅立ちの日なのに・・・
 夢への第一歩を踏み出す記念すべき日・・・
 それなのに私の心は何故、沈み込んだままなの?
 もっと胸が高鳴っていてもいい筈なのに・・・
 私の胸にはすきま風が吹くような寂しさしかない・・・
 理由は分かっている。
 分かり過ぎるくらいに分かっている。
 耕治・・・
 このまま彼に心の内を告げることなく旅立ってしまうのだろうか?
 私はため息を付くと周囲を見回す。
 馴染みの商店街も、間近に迫ったバレンタインデーに向けて賑やかなことこの上ない。
 私と同じ年頃の少女達が、恥ずかしそうに、そして実に楽しそうに行き来する。
「バレンタインデーか・・・」
 私には全くと言って良いほど無縁の行事だった。
 それほどまでに私は全てを捨てて、お芝居に打ち込んでいたのだから・・・
 でももっと小さな頃は下手なりに、クラスの男の子達にあげるために必死で澪と一緒になってチョコレートを作っていたっけ・・・
 今となっては本当に懐かしい記憶だ。
「・・・久しぶりに、ちょっとやってみようかな・・・」
 渡せるかどうかは分からない。でもあげたい人が居るのなら、トライだけはしてみよう。 私はそう思いながら、近くのお店に足を向ける。
 そこは昔からのお気に入りのお店で、小さな頃澪と一緒にチョコを見よう見まねで作った時にも利用した思い出のある所だったりする。
 私は棚の一つ一つをゆっくりと眺めていく。
 ちょっと忘れかけていた女の子らしい時間が過ぎていく。
 ・・・これなんか良さそうだな・・・
 そう思って伸ばした指先に、別の誰かの指先が触れる。
「あっ、ごめんなさい!」
 二人の声が見事にハモる。
 えっと思ってそちらを見ると、そこには私と同じ顔が有った。
 高校の制服を着た私が、私自身を見つめ返している。
「澪?」
「潤?」
 私は妹の顔をまじまじと見つめる。
 澪は視線をふっとそらした。
 どことなく悪戯を見つかった子供のような仕草だ。
 私はクスリと笑う。
「・・・同じ様なこと考えてるなんて・・・やっぱり私たちって姉妹なんだね」
「・・・う、うん」
「・・・ねぇ澪、どうせならまた二人で一緒に作らない?昔みたいに・・・その方が絶対楽しいよ」
 明るく話しかける私に、澪は答えない。
 私は奇妙な違和感を覚える。
「どうしたの?」
「・・・ごめんなさい、潤・・・今度のはどうしても私一人で作りたいの・・・」
 相変わらず視線は逸らしたままだが、その瞳には今まで見たこともないほどの真剣さが垣間見える。
 いくら色恋沙汰に疎い私でも、流石にその理由には気付く。
「そっか・・・そうなんだ・・・澪にも出来たんだ、好きな人が・・・」
 私の言葉に頬を染める澪。
 いつの間にか二人ともそんな年頃になったんだなぁ・・・
 自分のことは棚に上げて、私は不思議な感慨にとらわれていた。
「・・・澪、私も応援しているから、頑張ってね」
「・・・う、うん・・・」
「じゃあね、澪」
 私はそそくさと必要な材料を買い揃えると店を出た。
 ただその時ふと気になったのは、私が「頑張ってね」と言ったときに見せた、妹の暗い表情だ。
「どうしたんだろう、澪・・・」
  
 オレはかりかりと答案用紙にシャーペンを走らせる。
 比較的、今回の試験は順調だ。
 それに、何よりもこれが終われば神楽坂にまた会える。
 そう思うと自然に笑みが浮かんでくる自分には呆れるしかない。
 ほんの数週間前からは想像もできないような心境の変化だ。
 たった一つのこと。
 たった一人の存在で、人が生きることはこんなにも楽しくなってしまう物なのかとは思いもしなかったというのが、オレの今の本音だ。
 本当はこのままで良い訳が無い筈なのに・・・
 いつまでも曖昧なままの関係ではいられない。
 オレは決断の日が近いことを感じていた。

 私は一人、ぐらぐらと煮立った鍋をぼんやりと眺めていた。
 本当にこれを彼に・・・耕治に渡すことが出来るんだろうか?
 それに彼は受け取ってくれるんだろうか?
 不安は再現無く沸き上がる。
 でも・・・でも自分の心に気付いてしまった以上、何もしないで居ることは出来無い。
 大阪へ・・・大阪へ旅立ってしまうまでに私は、全てにケリを付けなくてはいけないのだから・・・
 どうしてこのままの二人で居ることは出来ないのだろう?
 どうして私は心を決めなければいけないのだろう?
 誰かが傷つくのは分かっているのに・・・
 私の心は重く沈んだ。

 電車は中杉通の駅へと滑り込む。
 まだ午前中のそれも10時台と有っては、学生やサラリーマンが殆ど居ないため、私以外にこの駅に降り立つ人は居ない。
 私はゆっくりとお店に向かって歩みを進める。
 通い慣れた道だが、こんな時間に通ることは今まで無かったから、見知らぬ街を歩いているような気持ちになる。
 不思議な気分だった。
 やがて私はPiaキャロット中杉通店へと辿り着く。
 入り口をくぐった私を迎え入れるのは・・・
「いらっしゃいませ!Piaキャロットへようこそ!」 
 以前と変わらぬ、懐かしい言葉だった。
 そして目の前には、眼鏡の優しそうなお姉さんが、にっこりと微笑んで立っている。
 私の表情も自然とほころんだ。
「こんにちわ、涼子さん。いつも妹がお世話になっています」」
「あっ・・・神楽坂さん?お久しぶりね・・・今日はどうしたの?」
「今度の土曜日に私、大阪に発つことになったんです。それでちょっと皆さんにご挨拶をと思って・・・」
「そうだったの・・・あ、そんなところでは何だから、こちらへどうぞ・・・」
 私は誘われるままに、奥の方の客席へと向かう。
「それにしても、もうそんな時期なのね・・・」
 まだ店内にはお客さんはまばらなので、涼子さんが私のところへとコーヒーを持ってきてくれる。
「本当に夏にはお世話になりました」
「いえ、こちらこそ・・・でもね、神楽坂さんがお店を辞めると言い出したときは本当にどうしようかと思ったものよ」
「我が儘ばかり言って済みません」
 涼子さんはクスリと笑う。
「いいのよ、その事は・・・それに妹さんも良くやってくれているしね」
 私が、入団試験に合格し、このお店を辞めることになったとき、どういう風の吹きまわしか、妹の澪が、ここでバイトできないかな?と言いだし、私と入れ替わるように働きだしたのだった。
 ただ私と同じ顔をしているせいか、澪は何度も「キミはウェイターじゃなかったの?」とお客さんから尋ねられ閉口したという曰くが有ったらしい。
 確かに知らない人から見れば、そう言う風にしか見えなかっただろうなとは思う。
「あれっ?潤くんじゃない!久しぶり〜!」
 と明るい声が向こうの方から聞こえた。
 顔を上げてみると、やっぱり葵さんだ。
 この人の明るさは相変わらずみたいで私はちょっと嬉しくなる。
 それにしても葵さんには、私はまだ「潤くん」なんだなぁ・・・
 もっとも私の方もその方が接しやすくて、助かるのだけれど。
「どう、元気だった?」
「ええ、葵さんもお元気そうですね」
「おかげさまで毎日お酒が美味しくって・・・ところで、潤くん?」
「はい?」
「耕治君には会ったの?」
 私は少し俯く。
 涼子さんは小さくため息を付いた。
 それだけで二人は全てを了解したらしい。
「そう・・・じゃあ、澪ちゃんからは何も?」
 私はえっと言う表情を葵さんに向ける。
 澪と耕治・・・私の頭の中では全く結びつかない組み合わせだ。
 隣では、涼子さんが止めなさいというサインを送っているが既に遅かった。
 葵さんの顔にもあからさまに「しまった」という表情が浮かぶ。
「葵さん?・・・何かご存じなんですか?」
「えっ・・・あ、・・・その・・・」
 私は少し身体を乗り出した。
「何かご存じなら、教えていただけませんか?」
 我知らず、ちょっと言い方がきつくなっている。
 その迫力に押されたのか、葵さんは渋々と口を開く。
「私もはっきり聞いた訳じゃないんだけれどね・・・耕治君、毎日澪ちゃんを迎えに来ているらしいのよ・・・それに耕治君、澪ちゃんのことを潤くんだと思っているみたいって・・・あ、あくまでも噂よ、噂・・・」
 私はその瞬間、心臓を冷たい手でぐっと掴まれたような気がした。
 息苦しく、そして心が冷たくなる。
 確かに言われてみれば思い当たるフシが無い訳じゃない。
 ここのところ、澪はなんだかとても明るかったし、バイトに出かけるのがとても楽しそうだった。
 そして何よりも先日のチョコレート売場での一件・・・
 澪自身が好きな人が出来た事を認めていたじゃないか!
 私は自分の顔から血の気が引く音を聞いたような気がした。

 木曜日の夜、オレはいつもの様に中杉通の駅に降りると、路地を足早に進んでいく。
 もうすっかりと歩きなれた道のりだった。
 そしていつもの様に、街頭の下に立つ。
 時計を見ると9時20分。
 そろそろ神楽坂がやってくる頃だ。
 オレが腕時計から視線を町並みへと向けると、聞き慣れた足音が耳に届く。
 神楽坂だ。
 彼女が元気にこちらに向かって駆けてくるのが見えた。
 吐き出す白い息すらはっきりと分かる。
「やぁ」
 オレは陽気に声をかける。
 神楽坂は、まるで体当たりでもするような勢いで、オレの身体にどかっと身体を預けてくる。
「耕治・・・今日も来てくれたんだ、ありがとう」
 彼女は全身で喜びを表してくれている。
 4日ぶりだものな・・・オレだってとても嬉しい。
「オレが居ない間、いい子にしていたか?」
「もう、そんなに私、子供じゃないもん」
 神楽坂はぷうとむくれるがその表情が言葉とは裏腹に、子供っぽいのだからなかなか笑える。
「じゃあ、行こうか」
「うん!」
 オレ達はいつもの様に駅へと向かった。
 ただ、いつもと違ったのは神楽坂がオレの腕に縋り付くようにしていたことだ。
 もちろんオレだって悪い気はしない。
 きっと今のオレ達の姿は、どこから見ても仲の良い恋人同士に見えるんだろうな・・・
 オレはそう思いながら出来るだけゆっくりと歩くようにした。
 もちろん、少しでも長く彼女と居られる様にするためだ。
 二人っきりのかけがえの無い時間。
 それがオレ達の今なんだ・・・
 
 私はいつもの様に息せきって駆けていく。
 今日はあの人が来てくれる。
 そう思うだけで何気ない日常が、きらきらと輝き出す。
 不思議な感覚だった。
 生まれてこの方感じたことのない「ときめき」を私は覚える。
 居た!
 いつもと同じ街灯の下、彼は佇んでいる。
 私は思いっきり彼の腕の中に飛び込む。
 私・・・私・・・また彼に会えて嬉しいんだ。
 身体全てでこの喜びを彼に、耕治に受け止めて欲しかったんだ。
「耕治・・・今日も来てくれたんだ、ありがとう」
「オレが居ない間、いい子にしていたか?」
「もう、そんなに私、子供じゃないもん」
 私はその言葉にちょっとむくれるが、彼の笑顔を見ているとどうでも良いかな?と思えてくるから不思議だ。
「じゃあ、行こうか」
「うん!」
 私たちは二人腕を組んで歩き出す。
 この瞬間、私は本当に幸せだった・・・でも、私は彼を騙し続けているんだ・・・
 その事実が私の上に大きくのしかかる。
 私は・・・神楽坂澪・・・潤の双子の妹・・・
 でも耕治さんは私を潤だと思っている。
 そして私は耕治さんを・・・
 この関係がいつまでも続く訳は無いのに・・・
 でも今のこの幸せが無くなってしまうなんて今の私には耐えられない!
 どうしてこんな事になってしまったのだろう?
 私が耕治さんの事を知ったのは去年の夏、たまたま辞書を借りに潤の部屋に入った時だった。
 その時、私は見慣れない写真を姉の机の上に見つけたのだ。
 男の子の格好をした潤と一緒に写っている男の人の写真・・・
 優しそうな瞳・・・
 誠実そうな表情・・・
 何よりも大きくてたくましい肩・・・
 前田耕治・・・
 それがその人の名だった・・・
 その写真を最初に見た瞬間、何故かどきりとした。
 この感覚は良く分からない。
 でも、この写真の人に会ってみたいなと思ったのは事実だった。
 だが潤が姉が好きな人だと言うことが分かってからは、二人がうまく行くことを影ながら祈っていようと心に決めた。
 私にとってはただの憧れで終わるはずだったこの胸の気持ち・・・
 でも夏の終わりと共に、それは胸の痛みへと変わった。
 そのころ潤はそわそわと落ち着かず、何事かを心に決めた表情でバイト先の研修旅行へと出かけたのだった。 
 私は直感的に潤が、なけなしの勇気を振り絞って告白する決意をしたのだと悟った。
 きっと、その時の潤は、「純潔」を捧げる決意をしていたのだと思う。
 既に彼女にとって耕治さんは、「夢」と比較することが出来るほどの大きな存在になっていたのだった。
 そして旅行から帰ってきた潤は・・・私が正視できないほどに傷つき、悲しい瞳をしていた・・・
 きっと「陵辱」されたとしても、潤はあそこまで酷い有様にはならなかっただろう。
 潤の想いを受け止めてくれなかった耕治さん・・・
 私は心底、怒りを覚えた。
 きっと潤がキャロットを辞めることになった時も、ここに居れば耕治さんに会えるかもしれない。そして彼の真意を問いただそうと思ったのだろう。
 そして・・・偶然の再会。
 私にとっては初めての出会い。
 予想どうり私を潤と勘違いした耕治さんに、私は潤のフリをして近づき、彼の本当の気持ちを確認しようとした。
 でも・・・でも・・・耕治さんは私が思っていたとうりの・・・いやそれ以上に優しい人だった。
 ずっと・・・ずっと潤を見守り続けていてくれた・・・ずっと好きでいてくれた・・・
 それが嬉しくて、私は思わず涙を流したほどだ。
 そして耕治さんはずっと私のことを潤と思って接してくれている・・・大切にしてくれている・・・
 気が付いたとき・・・私は耕治さんと会うことを心待ちにするようになっていた。
 私は耕治さんに恋をしていた。
 本当なら潤に向けられるべき想いを、私は潤のフリをすることで独り占めしてしまっていたのだった・・・
 私は・・・潤を裏切っている・・・今もこうして潤のフリを続けながら、姉を裏切り続けている・・・
 でもこの想いは自分でもどうにもならない。
 耕治さんを好きになる私の心を止められない。
 でも私がこうして潤のフリを続ける事が出来るのも、今度の土曜日までだ・・・
 潤が大阪へ行ってしまえば、もう私は潤になることが出来ない。
 私は・・・私は・・・どうすればいいのだろう?
 耕治さんの笑顔を失ったら・・・
 私は彼の腕により強く身体を押しつける。
「・・・寒いのかい?」
「ううん・・・そうじゃないの・・・」
 それでも彼は私の肩に回腕を回して抱き寄せてくれる。
 私は・・・このぬくもりだけは絶対に失いたくはない・・・

 私は一人で暗がりの中に立つ。
 寒かった。
 私はコートの襟をたぐり寄せる。
 でも私の心は温かくはならない。
 その夜、私は葵さんと涼子さんから聞いた、耕治と澪の待ち合わせ場所から30メートルほど離れた路地裏に佇んでいた。
 噂の真相を自分の目で確かめるため、私は既に1時間以上もここで二人が姿を現すのを待ち続けている。
 端から見れば変質者かストーカーにしか見えないだろう。
 一体、何をやっているのだろうかと自分でも情けなくなる。
 そしてこんな事をしている自分自身が、もの凄く惨めで悲しかった。
 でも、二人のことを聞いた以上、居ても立っても居られなかったのだ。
 やがて駅の方からゆっくりとした足取りで、男の人が歩いてくる。
 私はその背中を見て思わず声を上げそうになった。
 懐かしい大きな背中。
 見間違える筈がない。耕治だ。
 そして彼が姿を現してから数分後、私のいる場所の反対側から軽やかな足音が近づいて来る。
 私は瞳を凝らす。
 向こうから駆けてくるのは、男の子のように髪を短くまとめほっそりした姿の少女だ。
 しかもその顔は私と同じ・・・
 澪だった。
 妹の澪だ。
 そして妹は喜びを全身で表すように、耕治の身体に思いっきり抱きつく。
 私が今までに見たこともないような明るい顔を澪はしている。
 二人はそれから何事かを語り合うと、仲睦まじく腕を組みながら歩き出した。
 その様子はどこから見ても仲のいい恋人同士にしか見えない。
 本当だったら私が居るべき場所を、私と同じ顔をした少女が独占している。
 どうして・・・どうして・・・
 私はもういたたまれなかった。
 二人から反対方向に思いっきり走り出す。
 本当ならそのまま二人の間に踏み込んでも良かったのだが、その時の私にはそんな勇気はなかった。
 私はその場から逃げ去ることしかできない。
 今の私は一体どんな顔をしているのだろうか?
 嫉妬・羨望・怒り・悔恨・それとも悲哀?
 多分、今の私は「鬼」の様な顔をしているのだろう・・・
 分からない・・・何も分からない・・・
「どういう事よ・・・これって一体どういうことなのよ・・・」
 私のつぶやきはただ闇に吸い込まれて行くだけだった・・・

 帰宅したとき、潤はまだ戻っていなかった。
 私はちょっと心配するが、取りあえず部屋で学校の宿題を始める。
 でも全く頭に入らない。
 私は教科書を放り投げると、ベッドに横たわる。
 そして大きな、大きなため息を付く。
 私の視線は壁のカレンダーに向けられる。
 2月14日には大きな○が付けられていた。
 潤が大阪へと旅立つ日。
 そして私一人きりの生活が始まる。
 と隣室の扉が開く音が聞こえた。
 潤が帰ってきたんだ。
 私は慌てて隣の部屋の扉をノックする。
 返事はない。
 私は思いきって扉を開ける。
「潤?」
 遅かったじゃない・・・と言いかけた私は、振り返った姉の顔見て絶句する。
 そこには今まで見たこともないような姉の顔があった。
 血の気が失せ、異様な光をたたえた赤い瞳・・・
 夜道で出会ったら幽霊かと思うかもしれない・・・
「潤?」
 私はもう一度呼びかける。
「・・・澪・・・説明して頂戴・・・一体どういうことなの?」
 静かな語り口で潤が尋ねる。
 しかし異様なほど恐ろしい。
「説明って・・・いったい何のこと?」
「とぼけないで!耕治の事よ!!」
 その瞬間、私は全身が凍り付く。
 知られてしまったんだ・・・・

 私は・・・私は・・・罪を犯した。
 姉が好きだった人を奪ってしまった・・・
 罪は裁かれなければならない・・・

 私は微動だにしない澪に・・・妹に向かって一気にまくし立てる。
「どうしてあなたが耕治と一緒にいるの!
 一緒にいられるの!
 そこは・・・そこは私の場所だったんだよ!!
 耕治の隣は、私が居るはずだった場所なんだよ!!
 それなのに!それなのに!!
 後から出てきて人の大切な物を奪って、のうのうとしているなんて! 
 どういうつもりよ!!」
 理不尽な、あまりにも理不尽な私の言葉に澪はおびえる瞳を向けるだけで身動き一つしない。
 それがさらに私の怒りに火を付ける。
 お前が!お前がいなければ!!
 ・・・お前なんて居なくなってしまぇっ!!!

 がしゃん!!!!
 
 もの凄い音と共に、私の机に置かれていたスタンドが床に落ち、粉々に砕け散った。
 私はふっと我に返る。
 指先に不思議な感触があった。
 恐る恐る視線を目の前に向ける。
 私が掴んでいた物・・・それは妹の首だった。
 私の指先が妹の喉を掴んでいたのだった。
「ひっ!!!」
 悲鳴を上げて私は両手を突き放した。
 どすんと言う音と共に妹の身体が床に倒れる。
「ぐふっ・・・げほっ!・・・あひっ!!」
 激しくせき込む澪・・・
 澪は・・・妹は生きている・・・
 私はその場にへたり込んだ。
 私は・・・私は・・・
 一体何をしていたんだろう・・・
 妹を・・・怒りにまかせて妹を殺そうとしていた?
 私は床に落ちたスタンドに視線を向ける。
 それは私と耕治が一緒に写ったたった1枚の写真だ。
 それが・・・妹をそして私を救ってくれた・・・
 私の頬を涙が伝う。
 背後では澪が起きあがる気配がする。
「・・・潤?」
「・・・嫌・・・もう嫌だよ、こんなのって!!!」
 私は後も振り返らずに、家を飛び出し暗い闇の中へと駆けだした。
 もう何も・・・何も私にはない・・・ 
 家族の中にも私の居場所は無くなってしまったんだ!
 私はただ闇の中を駆け抜けることしか出来なかった。

 私は潤が飛び出した後もずっと放心状態だった。
 生きているでもなく、死んでいるのでもない。
 だが「助かった」と言う気持ちよりは「死に損なってしまった」と言う気持ちの方が遙かに強かった。
 潤の指先が首にかかったとき、私は殺されても仕方がないと思っていた。
 抗うことは出来なかった。
 私は罪を犯したのだから・・・
 潤の心の中で一番大切な部分を奪い取ってしまったのだから・・・
「もう・・・これで何もかも終わりだよね・・・」



「中編」あとがき
 と言うわけでどんどん長くなっていく、「二の喜劇」ですが、
ちっとも終わりません。(苦笑)
 おまけに何だよこの展開は!と言われそうなもの凄いことになっていますよね。
本当にこの話ハッピーエンドになるんでしょうか?

 ちなみに今回のSSは、TOYBOXの「GO!GO!木ノ下祐介」の中で、
潤くんが「妹がここで働きたいといってるんですけれど」と言っていたのが
元になっています。
 もしこの状況で耕治が来たらどうなるのかな、と・・・
 では次回、「二の喜劇」後編 「闇にサヨナラ」
 そして終章「かがやけるものたちへ」でまたお会いしましょう。

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