「二の喜劇」
序:「もっと高く!」
ぽつり・・・
暗い部屋の中央に、私はたった一人で立って居る。
眩しい・・・
私の目の前には大きなライトが有ったのだ。
その光が直に瞳に飛び込んでくる。
私は何度も目を瞬いた。
よく瞳を凝らすと、ライトの手前には4〜5人のシルエットが見える。
宝歌劇団の入団試験の試験官達。
だが逆光のため、その表情までは分からない。
私、神楽坂潤は、その日、宝歌劇団の入団試験を受けていた。
これが、5回目・・・
これで最後だと自分自身に言い聞かせて来た、最後の挑戦。
どくん・・・どくん・・・
胸の高鳴りが耳に届く。
そのあまりの激しさは、試験官達の耳にまで届いているのじゃないだろうかと思える程だ。
落ち着いて・・・いつもの様に、そういつもの様にすればいいだけなんだから・・・
今まで自分はこの日のために必死で努力してきたんだ・・・辛い想いもしたんだ・・・
それに、それに・・・今度は私一人だけの為じゃないんだ・・・
耕治・・・
私は心の中で愛しい人の名前を呼んでみる。
「それでは始めて下さい・・・」
私は大きく深呼吸すると、すっと一歩前に出る。
宝歌劇団入団の為の実技試験・・・今回、私に与えられた課題は「自殺を図った少女を労る恋人」・・・
私の脳裏には研修旅行最後の夜の耕治の姿が浮かぶ。
私を見つめる優しい瞳。
額の汗を拭う大きな手・・・
心の中にまでぬくもりが届く、暖かくたくましい腕・・・
耕治なら・・・あなたならこうした・・・
こうしてくれた・・・
・・・こうして欲しかった!
その瞬間、私は自分の体が自然と動き出すのが分かった。
今まで感じたことのない感覚だ・・・
まるで指先が、つま先が自分の意志を持って動いているような感覚。
と同時にふっと意識が途絶えるような気がした・・・
でも、この感覚は嫌じゃない・・・
この瞬間にはもう試験の事も、自分自身のことも何もなかった。
ただ自分の体が全てを感じ、自然に動く・・・
私の目の前には少女が横たわっていた。
夢に破れ、戦いに疲れ、絶望に打ちひしがれている少女・・・
その暗い瞳が私の胸を打つ。
私はそっとその身体を抱きしめる。
冷え切った身体の感触が痛いくらいだ・・・
私は彼女の頭を胸に抱く。
そっと髪をなで上げる。
「どうして・・・どうして、君は何もかも一人で背負い込もうとする・・・」
いつの間にか私の瞳からは涙が溢れだしている。
「君の痛みを・・・苦しみをボクは一緒に分かち合いたいのに・・・」
ふっと少女の声が聞こえたような気がした・・・
・・・どうして・・・あなたは私の事を・・・
「・・・ボクはキミが好きだから・・・ボクが出来る精一杯のことをキミにしてあげたいんだ・・・」
「・・・そこまでです」
その声とともに、私の実技試験は終わりを告げた。
周囲からは、ほうっ!とため息が聞こえる。
でも私はまだしばしの間、役に入ったまま、実体のない少女の身体を抱いたまま、身じろぎ一つしない。と言うより出来ない・・・
「神楽坂君!」
自分の名前を呼ばれて、私はようやく私、神楽坂潤に戻った。
あれっという顔とともに私は立ち上がり、周囲を見回す。
すると試験官達は皆、呆けたような顔をして私を見つめている。
「あ・・・済みません・・・ちょっと役に入り込んでしまって・・・」
私はそう言いながら、目尻の涙を拭く。
今回は自分でも何かを「越えた」という感触があった。
ただそれはこれで受かるだろうとかというレベルの物ではなく、役を演じきった事による不思議な満足感だった。
もうこれなら結果がダメでも構わない・・・そんな気持ちだ・・・
「・・・いや・・・その・・・凄く良かったよ・・・」
なにげに言った一人の試験官の腕を隣の試験官が軽く叩く。
確かにこのような場所では不適当な発言かもしれない。
それは明らかに試験官と言うよりは「観客」の反応なのだから・・・
「ありがとうございました」
私は一礼すると控え室へと戻り、椅子に腰を下ろした。
何だか全身から力が抜けたような不思議な気分だった。
まるで、私に身体に取り憑いていた「何か」が、ぽっかりと抜け落ちてしまったような、そんな感覚・・・
私はバッグの中から手帳を取りだした。
いつも、いつも肌身離さず持ち歩いている、大切な記憶のかけら。
私は手帳を開く。
そこにはあの夏以来、片時も忘れたことのない大切な人の写真が納めてある・・・
優しそうな瞳・・・
誠実そうな表情・・・
何よりも大きくてたくましい肩・・・
前田耕治・・・
それがその人の名・・・
目を閉じると二人で過ごした半年前のことが昨日のことのように脳裏に浮かぶ・・・
私はもう一度瞳を開くとじっと彼の顔を見つめる。
と、彼の顔が次第にぼやけていく。
ぽとり・・・ぽとり・・・
私の瞳から涙がこぼれ落ち、写真の上に・・・
まるで写真の耕治も私と一緒に泣いてくれているみたいだ。
「・・・ありがとう・・・耕治はずっと私と一緒にいてくれたんだよね・・・力をかしてくれたんだよね・・・」
明らかにこれは嘘だ。
けれども私はそう信じたかった・・・
人には嘘でも良いから何かを信じたくなるときが有る。
みんな弱いから・・・
心が何かを求めるから・・・
多分、私にとっての耕治はそう言う存在なのだろう・・・
でも・・・でも・・・耕治は私のそばには居ない・・・
私は・・・あの夏の夜、耕治よりも自分自身の夢の方を選んでしまったのだから・・・
何も、何も本当のことを彼に伝えることが出来なかったのだから・・・
あの時、ほんの一瞬、二人の心は限りなく0に近づいたのに、そのままふれあう事はなく、また離れてしまったのだから・・・
あの日以来、私は耕治と会っていない。
二人の道は完全に分かたれてしまった・・・そう思えたから・・・
数日後、「合格」の通知が潤の元に届いた。
そしてその日から程なくして、「Piaキャロット中杉通店」から一人のウェイターの少年の姿が消え、同じ顔の少女がウェイトレスとして働く姿が見られた・・・
1.SECOND CONTACT
「さっ、寒い・・・」
私はちょっと首をすくめる仕草をする。
季節は冬の終わりも近い、2月の初め・・・。
春を間近に控えた頃とは言いつつも、やはり寒い。
こんな時にお店の前の清掃をする羽目になるなんて、ちょっとついていないと思う。
私は小さくため息をついて、お店の窓ガラスに自分自身の姿を映してみる。
男の子みたいに短くまとめたさらさらの黒髪と大きくつぶらな瞳に、Piaキャロット中杉通店名物のメイドタイプに身を包んだスレンダーな身体・・・
自分でも結構良い線行っているとは思う。
身体をちょっと翻してみせると、私の名札がぽとりと地面に落ちる。
「あっ、いけない」
あわてて拾い上げたそれには「神楽坂」という文字が刻み込まれている。
私はちょっと苦笑する。
そう言えば私がこの制服を初めて着たときには、お客さん達から「キミはウェイターやっていたんじゃないの?」と何度も同じ質問をされたっけ・・・
流石に最近ではそう言うことも無くなったが、何度も同じ事を説明するのは実に骨の折れる事だというのを私は身をもって知ったのだった。
と、ひゅーっと音を立てながら、つむじ風が私の周りに巻き起こる。
私はもう一度首をすくめると、またちりぢりになったゴミを履き直して、一カ所に集める。
相変わらず、吸い殻やガムの包み紙が多い。
履いても履いても無くならないから、いつも嫌になる。
私はため息をつきながら、ちょっと恨めしそうな視線を通行人達に向けた。
そんな私にはお構いなく、皆、足早に通り過ぎていく。
「・・・神楽坂?」
その時、ふと私の名前を呼ぶ声が耳に入る。
私はえっと言う顔で、そちらを振り返る。
二人の視線が合った。
優しそうな瞳・・・
誠実そうな表情・・・
何よりも大きくてたくましい肩・・・
前田耕治・・・
何度も何度も見た事のある、懐かしい顔だった。
でもその顔は何故か初めて出会う人を見るような当惑した物だ・・・
あっ、そうか・・・私・・・今、女の子の格好をしていたんだ。そう気付くのに、数瞬の間を私も必要とした。
「えっ・・・あっ、・・・こ・・耕治」
一瞬の間が有り、彼はぎこちない笑みを返す。
「・・・久しぶりだね、神楽坂・・・その制服、よく似合ってるよ」
「・・・う、うん・・・ありがとう・・・」
何だかぎこちない会話・・・
一体、こういうとき、私はどうすればいいの?
私は当惑した顔を浮かべる事しかできない。
いろんな事が言いたいのに、言葉が出てこない。
何だか凄くもどかしい・・・
それを見越したのか、彼はちょっと言葉に詰まりながらも、私に尋ねる。
「・・・オレ、一度、神楽坂とはゆっくり話がしたいんだけれど・・・今日、時間有るかな?」
私はどきりとする。
思いもかけない彼からの申し出だ・・・
私はしどろもどろになりながらも彼に答える。
「・・・うん・・・じゃあ仕事が終わったら・・・」
「分かった・・・9時過ぎにまたここへ来るよ」
それじゃあと言い残して立ち去ろうとする彼に向かって、私は思わず声をかける。
「あ、あの・・・」
耕治は怪訝そうな顔で私を見つめる。
「私・・・待ってるから・・・絶対に、絶対に来て・・・」
「・・・分かった・・約束だよ」
耕治ははっきりとそう言うと、私の視界から立ち去った。
私は暫くの間、そのまま彼の歩み去った方向をじっと見つめ続けている。
そして、ため息を一つつく。
・・・どうして、あんな事言っちゃったんだろう?
彼の申し出をそのまま断ることもできたのに・・・
私はもうあまり掃除には身が入らず、履き集めたゴミを捨てると店内へと戻った。
ふうっと私の身体を暖かい空気が包み込んでくれる。
さっきまで居た表に比べれば、ここは天国みたいな物だと思う。
「神楽坂さん、お疲れさま。寒かったでしょう?」
マネージャーの涼子さんが、労るように私を迎え入れてくれる。
「いえ、でもあまり綺麗には出来ませんでした。済みません・・・」
「仕方が無いわ・・・この寒さじゃ、あまり無理も言えないしね・・・」
「・・・済みません」
「ところで神楽坂さん?」
「はい?」
「もうすぐね、大阪行き・・・寂しくない?」
「寂しくないと言ったら嘘になります。でも、小さな頃からの夢が叶ったんです。笑顔で送って下さい」
「そうね・・・あなたも頑張ってね」
涼子さんは私の肩に軽く手を置くと、レジの方へと戻っていく。
私もそのままフロアの仕事に戻った。
けれどもお店が閉まるまで、私の心の中に浮かんでくるのは、この後の耕治との事ばかり・・・
私はちゃんと言えるのだろうか?
今までのことを。
そしてこれからの事を・・・
私の心は堂々巡りを繰り返す。
でも心の何処かは何か浮き立つ物を感じているのもまた事実だ。
複雑な想いを胸に秘めたままだったが、お店が閉まると私はそそくさと着替えを済ませて、挨拶もそこそこに表に出る。
少し汗ばんだ額に夜の空気がひりひりとする。
吐き出した息が白いもやとなって私の目の前に広がる。
明らかに呼吸が激しくなっている。
私はちょっとだけ深呼吸をすると、周囲を見回す。
と、お店から少し離れた街灯の下に見慣れた人影があった。
私は小走りでそちらに駆け寄る。
「・・・やぁ・・・」
「・・・耕治、・・・ごめん待たせちゃった?」
「いや・・・」
ちょっと無愛想な言葉を返す彼だったが、照れくさそうに私に缶コーヒーを渡してくれた。
「別に飲まなくてもいいよ。持ってるだけでも暖かいから・・・」
確かに私の手のひらの中に暖かい感触が広がる。
それにこの缶の暖かさなら、私は彼をあまり待たせた訳ではないようなので、ちょっと安堵した。
「それじゃ・・・まず駅まで行こうか」
「・・・うん」
私たちは連れだって歩きながらもしばし無言のまま・・・
そのまま中杉通りの駅にたどり着くと、他に適当な場所も無いので、ハンバーガーショップへと入る。
と言っても閉店までの時間は余り無いから、私は意を決して口を開いた。
「耕治・・・ずっと、聞きたかったんでしょう・・・私のこと・・・」
彼は無言でうなずく。
「どうしてあなたの前でずっと男の子のフリをしていたのか・・・」
私は、そこで今までのあらましを彼に語った。
私の母親がかつて「宝歌劇団」で男役を務めていた事を・・・
その母にあこがれて同じ道を目指していたことを・・・
今まで何度もオーディションを受けながら、ずっと落ちこぼれていた事を・・・
そして最後のチャンスを掴むため、男の子のフリをしてキャロットでバイトを始めたことを・・・
全部、全部、あの日の夜、彼に語ってしまいたかったであろう事を・・・
「本当にバカなことをしていたと思うでしょう?・・・笑ってもいいよ・・・」
「いや・・・オレはキミを笑う事なんて出来ないよ・・・神楽坂はずっと真剣だった・・・夢に向かって真っ直ぐに立ち向かっている子だって分かったから・・・」
私の話を、彼はずっと真摯に聞いていてくれた。
何故だかそれがとても嬉しい。
「それにさ、今度はちゃんと合格したんだろう?
おめでとうぐらいは言わせてくれよ・・・」
「えっ?」
呆気にとられた私の顔を見て、耕治はちょっと苦笑する。
「おいおい、オレだって新聞くらいはちゃんと読んでるぞ。
宝歌劇団の入団試験の記事はちゃんと読んだよ・・・でも合格者の中に自分の知っている名前が有ったときは流石に驚いたけれどね」
「じゃあ、耕治は知ってたの?」
「大体の想像はついていたよ・・・でも、きちんと神楽坂、君自身の口から本当のことを聞きたかったんだ」
彼はずっとずっと見ていてくれたんだ・・・あの夏の後も・・・
私は自分の頬に一筋の涙が流れるのを感じた。
「やっぱり・・・耕治って私がずっと思ってたとうりの人だった・・・」
「神楽坂?」
「なんだか凄く嬉しいよ・・・」
とその時、軽快なメロディが流れ出す。
あれっと、耕治の方を見ると、彼がポケットから携帯電話を取り出すのが見えた。
私はちょっと寂しげな瞳を彼に向ける。
「もしもし?あっ、お前か?」
どうやら相手は男性らしい。
私は内心ほっと、胸をなで下ろす。
「ゴメン、オレ今日は遅くなるかも
えっ?・・・ああ、分かった、分かった・・・なるべく早く帰るようにするから・・・
じゃあな」
携帯電話をポケットにしまう彼に私はちょっと意地悪く尋ねる
「ねぇ、誰だったの?」
一瞬、耕治は困ったような表情を浮かべるが、にこりとして口を開く。
「オレの従兄弟だよ・・・今度東京の大学を受ける事になったから、今ウチに居候して居るんだ」
受験?何となく私には馴染みの薄い単語が出てきて、ちょっと戸惑うが、良く考えてみれば耕治も高校3年生だから、立派な受験生だ。
「そういう耕治も受験生でしょう?大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、もう推薦で合格は貰っているし、本命の試験は終わったから・・・」
そう言って耕治が笑って見せたとき、店内に流れるのは・・・
「本日は当店をご利用下さいまして、ありがとうございました。まもなく、閉店の時間となります・・・」
実に無粋なアナウンスだった。
「あれ、もうそんな時間か・・・」
「もっと色々話したかったのにね」
これは私の偽らざる心境だ。
やっぱりこの人と一緒にいると、私もとっても楽しいんだ・・・
私たちは渋々、店を出ると駅へと向かった。
この駅からは丁度私たちは正反対の方向へと向かうことになる。
寂しいけれど私たちはここでお別れだ。
私は名残惜しそうな目で彼を見つめる。
私・・・まだ聞かなくちゃいけないこと一杯有るのに・・・
でも私の口から発せられた言葉は・・・
「ねぇ、耕治・・・・私たちって、まだ友達なのかな?」
ちょっと思案する耕治
「・・・少なくともオレは神楽坂のこと嫌いになった訳じゃない」
そう言いながら耕治は右手を私に差し出した。
「また会ってくれるかな?」
私もその手をしっかりと握りしめる。
「うん」
暖かい感触・・・
電車に揺られながら、私はぼんやりと視線を窓から右手に移す。
耕治のぬくもりが残った手のひら。
私はそれを目の前でそっと握りしめた。
オレは暗い夜道を一人、家へと足早に駆け抜けていく。
吐き出す息が白くオレの頬にまとわりついた。
何となく嫌な気分だ。
既に時間は日付が変わろうかという頃合いで、すれ違う人影もなく、冷えたアスファルトを叩くオレの靴音だけが周囲に木霊していた。
やがてオレの自宅のシルエットが街頭の向こうに浮かび上がる。
その窓には一つだけぽつりと明かりが灯っている。
今、オレの家に居候している従兄弟のジローの部屋だ。
「あいつ、まだ起きていたのか・・・」
オレが合い鍵を使って扉を開けると、その音を聞き付けて階段から下りてきたのはやはり、ジローだった。
「随分遅かったな・・・」
「ああ、すまん。ちょっと昔の友達に会ってな・・・少し話し込んじゃったんだ」
「伯母さん達、先に寝ちゃったぞ」
「別に良いよ、食事は済ませてきたから」
オレと同い年のコイツとは、お互いに遠慮のない会話が出来る。そう、丁度同い年の兄弟が居ると言う感じだろうか?
もっとも、叔母夫婦が転勤で引っ越してからはそれほど頻繁に顔を合わせる事はなくなったが、それでも真士を除けば腹を割って話せる得難い友人の一人であることには変わりがない。
オレは手にしたコンビニ袋をちょっと上げてみせる。
「ちょっと付き合ってくれよ・・・今夜は少し飲みたい気分なんだ・・・」
「はぁーっ・・・何時からお前はそんなに飲んべえになったんだ・・・」
「去年の夏からだ・・・」
「あっ、そう・・・」
と言いつつも、ジローは嫌そうな顔はしない。これで意外といける口なのだ。
そしてオレの部屋で即席の宴会が始める。
最初のビールは二人ともあっさりと空にした。
「それにしても強くなったもんだな・・・」
「まあね。バイト先で鍛えられたからな」
オレは苦笑を禁じ得ない。
だが、ジローはちょっと暗い表情を浮かべる。
「・・・まだ、吹っ切れていないんだな、彼女のこと・・・」
オレは答えない。
黙って次の缶を開ける。
すっかりコイツにはお見通しというわけだ。
去年の夏、オレと神楽坂のことはジローには包み隠さず話してある。
と言うよりは、その時の辛い気持ちをオレがジローに語る事で紛らわせようとしたというのが本当だろう。
その時もオレ達は朝まで飲み明かしたものだ。
ジローはオレにとって、そうやって苦しい胸の内を吐き出すことが出来る数少ない存在なのだった。
ジローはふうっ、とため息を一つつくと、オレの机の上に視線を向ける。
そこには唯一残された神楽坂の写真の納められたスタンドが置かれているのだ。
オレはジローの視線を追う。
スタンドの中には、グリーンのノースリーブのジャケットを身につけたショートカットの少女が恥ずかしそうな笑顔を浮かべている。
オレの胸には少しずきりとした痛みが走る。
オレがもう少し勇気を出し、指を伸ばせば触れる事が出来たかもしれない少女。
悲しみも痛みも共に分かち合いたいと思った女性・・・
「お前、彼女のことまだ好きなんだろう?はっきり言ってしまった方が良いぞ・・・」
「・・・もう遅いよ・・・あの子はね、ずっと夢を追っている子なんだ。オレは彼女の夢の邪魔はしたくない・・オレ、そんなのは嫌だからね・・・」
「本当にそう思っているのか?」
「ああ・・・それにね、オレと彼女は『友達』どうしなんだよ・・・」
そう言うオレのその時の顔は、きっと未練一杯の男の顔の見本でしかなかった。
口で言うほどにはオレの心は割り切れていないのだろう。
「・・・寂しいな・・・」
「ああ・・・」
2.うたかたの・・・
「お先に失礼します〜」
いつものようにそそくさと着替えを済ませると私は更衣室を出る。
心が何となく浮き立つのが自分でも分かる。
今日も耕治は来てくれて居るんだろうか?
私は心持ち不安になるが、きっと彼は来ているという一種の確信めいた想いが有るのも事実だ。
実際、あの日から耕治は私の仕事が終わるのをいつもお店の近くで待っていてくれる様になっていたのだ。
それはお店から駅までのほんの15分ほどの短い時間だったが、今の私たちにとっては何物にも代え難い大切な時間になっていた。
それが自然と表情にも現れるのか、私の口元には笑みが浮かんでいる。
「神楽坂さん、最近楽しそうね」
廊下ですれ違った涼子さんが私にそう言いながら笑顔を向けた。
「えっ?そ・・・そうですか?」
「ええ、とっても」
涼子さんは意味ありげな笑みを浮かべる。
私はちょっとだけ後ろめたい気持ちになる。
「そんなんじゃないですよ・・・友達と待ち合わせしてるんです」
「友達・・・それ前田君でしょう?」
私は一瞬、どきっとする。
思わず、声を上げそうになるほどだ。
「いいのよ隠さなくても。」
「・・・知ってたんですか?マネージャ」
「この間ね、後ろ姿をちらっと見かけたのよ・・・何だか懐かしかったなぁ・・・」
そう言った涼子さんの表情は少し寂しげだった。
私は無言で見つめる事しかできない。
「でもね、前田君ライバルが多いから大変よ・・・ところで、神楽坂さん・・・」
涼子さんはそこで急に真顔になって私を見つめる。
私はちょっとだけその雰囲気に気圧された。
「・・・彼にはきちんと話したの?」
私は返答に困る。
実はずっと私の心の中でくずぶり続けている事なのだった・・・
「・・・まだです・・・何となく話を切り出せなくて・・・」
「でも何時までもこのままって訳にはいかないでしょう?」
正直言って私はまだ迷っていた。
でもずっとこのままで居ることは出来ない。
でも、でも・・・今のこのままの関係を無くしてしまいたくもない・・・
私には決断をする勇気がまだ無かった。
「・・・すみません、マネージャー。・・・耕治が待っていますから・・・」
私はそのまま逃げるようにその場を辞す事しかできない。
私の背後では涼子さんが吐き出したため息が聞こえた。
そしてその夜も、私はいつもと同じ街頭の下に彼がたたずんで居るのを見つけた・・・
どすん。
大きな音を立てて私が手にしたバッグが床に落ちる。
荷物が予想外に多く、私は苦笑を禁じ得ない。
「やっぱりまだまだ多いかな?」
私は改めてバッグの中身を取り出す。
冬場に着込んでいたお気に入りのセーター、
ずっと使い込んで手に馴染んだブラシ・・・
そして、写真立て・・・
私は少しだけ切ない気分になる。
間近に迫った私の大阪行き・・・
宝歌劇団の入団試験に合格し高校を中退した私は、この春からの2年間、練習生として大阪の寮で一人住まいを始めることになっているのだ。
当分、この部屋にも帰ってくることはない。
もう一度私は見慣れた部屋に残された思い出を一つ一つ、しまい込むように片づけていく。
既に大きめの荷物は整理が済み、先に送る手筈が整っているから、今の私の部屋は奇妙なほどがらんとしている。
私は先ほど取りだしたスタンドに目を向けた。
そこには照れくさいような嬉しいような、奇妙な笑みを浮かべた華奢な男の子と並んで苦笑している耕治の写真が納められている。
私はその写真を手に取る。
胸が締め付けられるような、それでいて懐かしい・・・私は不思議な気持ちになる。
耕治と並んでいる男の子は私だった。
そう、これは半年前、キャロットで働いていた時耕治と一緒に撮った唯一の写真・・・
私は、それを明日先に送る荷物の中に一旦は納めた・・・が、その自分自身の女々しさが無性に嫌になり、床に置く。
でも・・・やはり気になる・・・
私はもう一度写真を手にした。
と、その時、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「潤、入っても良い?」
妹の澪だった。
もっとも妹と言っても彼女とは一卵性の双生児だから、お互い姉妹という感じは余りしない。
ある意味彼女と私は同じ人間なのだから、当然と言えば当然かもしれない。
単に私は姉を、澪は妹を演じるように躾けられてきたと言うだけのことなのだろう・・・
「澪?帰っていたんだ」
「うん・・・潤よりも少し前にね・・・」
そう言いながら澪は扉を開け、部屋の中に入るときょろきょろと辺りを物珍しげに見回す。
「・・・どうしたの?」
「・・・潤てホントにいなくなっちゃうんだなぁって・・・」
私も改めて自分の部屋を見回す。
確かにいつの間にか私の部屋は物が少なくなり、今まで私の見たことのない、見知らぬ部屋の顔をしていた。
「私と潤・・・ずぅっと一緒だったのにね・・・」
「・・・もうすぐ全然別の道を歩いて行くんだよね」
私たちは今までずっと一緒に過ごしてきた。
泣くのも、笑うのも・・・
お互いの存在が無くなってしまう事など考えることもできなかった。
それなのに、私はもうすぐ旅立とうとしている。
「寂しくなるかな?」
そう言った澪の視線は、ふっと耕治の写真に向けられる。
私は妹の瞳に奇妙な色が浮かぶのを見た。
私が知らない、「女」としての妹の顔・・・
「写真・・・持って行かないの?」
「うん・・・何だか女々しいような気がして・・・」
「嘘・・・潤、まだ耕治さんのこと好きなんでしょう?」
私は答えない。その必要がないことは澪も知っている。
「・・・もうはっきり自分の気持ちを伝えれば?」
「・・・でも私が好きなんて言ったら迷惑じゃないのかな?」
「そんなこと無いよ!耕治さんだってまだ潤のこと好きだよ!」
「どうしてあなたにそんなことが分かるの?」
澪は答えられない。
耕治に会ったこともない彼女には分かる筈もない事だ。
「・・・私と耕治は友達・・・そう、ただの友達なんだから・・・」
「やあ」
いつものようにオレは彼女に声をかける。
場所はいつもと同じ、Piaキャロット中杉通店にほど近い街角だ。
「・・・耕治、今日も来てくれたんだ・・・」
神楽坂はにっこりと微笑む。
何とも言えない、心の奥底が暖かくなるような笑顔だ。
いつの間にかオレは、彼女のこの笑顔を見るためにこうしてこの場所にやって来るのが日課となっていた。
たった15分ほど、駅までの道のりを一緒に歩くだけの時間。
でも今はそのひとときが何物にも代え難いほどの貴重な時間となっている。
我ながらバカなことをしているとは思うのだが、いつも神楽坂の笑顔を見ればそんな気持ちは雲散霧消してしまう。
だが今夜の彼女はどことなくいつもと雰囲気が違う。
何となく笑顔に翳りが感じられるのだ。
オレは心配そうに彼女の顔を覗き込む。
「神楽坂、どうかしたの?」
「ん・・・何でもないよ・・・」
と言いつつも、その表情は沈み込んだまま。
明らかに何か心配事抱え込んだ人間の表情だ。
「・・・本当かい?でももし何か悩み事があるのならオレに相談してくれよ。出来る限りは力になるから・・・」
「耕治・・・ありがとう。でも本当に何でもないから・・・」
「そう。なら良いんだけれど・・・」
そしてオレ達はいつもの様に駅へと向かう。
道すがら、オレ達は取り留めのない話を取り交わす。
「そう言えば、耕治はどうしてお店の方には来ないの?涼子さんや葵さんも耕治には会いたがっているのに・・・」
ちょっと痛い所を突かれてオレは苦笑する。
「そうしたいのは山々なんだけれどね・・・今更出向くのが照れくさくてね・・・半年もご無沙汰していたし・・・それにみんなとは色々有ったし・・・」
「そんなの気にするような事じゃないのに・・・」
「うーん、やっぱりまずいよ・・・」
「じゃあ、私はいいの?」
「うん、・・・神楽坂は特別・・・」
彼女はふっと歩みを止めてオレの顔をまじまじと見つめる。
「えっ?あ、どうかしたの?」
「う・・・うん。何でもない。何でも・・・」
そんな会話をしながらオレ達は駅へとたどり着く。
本当に楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまう。
またいつもの様にオレ達はここでお別れだ・・・
「じゃあ、神楽坂。また明日・・・」
「あ、耕治・・・私、明日休みだよ。だって日曜日だから・・・」
「えっ?・・・あっ、そうか・・・そうだったっけ・・・」
「もう忘れたの?私、前から日曜と火曜がお休みだったじゃない・・・」
「そう言えばそうだね。ここのところ受験で曜日の感覚がおかしくなっているかな?」
「・・・明日は会えないね。残念だけれど・・・」
彼女は心底、悲しそうに言う。
その様子が、オレにある決断を下させた。
「それじゃあ、神楽坂。明日、二人で何処かに遊びに行かないか?」
自分でも吃驚するくらい簡単にこの言葉が口から出た。
ぱっと彼女の顔が輝く。
「えっ!良いの?本当に?」
オレは大きくうなずく。
「でも、受験の方は本当に大丈夫なの?」
「前も言ったろう。推薦は受かってるし、他の試験もあらかた済んだって・・・」
「じゃあ・・・遊園地に行きたい!・・・前も二人で行ったでしょう・・・もう一度行ってみたいなぁ」
彼女は照れくさそうにしながらも、オレの顔を見つめる。
この状態でこの申し出を断れるような奴が居たら、オレはそいつの顔を見てやりたい程だ。
「分かった。じゃあ、前と同じ場所で同じ時間で良いかな?」
「うん!」
力一杯、元気良く返事をする神楽坂。
オレも自然と笑みが浮かぶ。
「それじゃ、明日は遅れるなよ」
「分かってる・・・じゃあ耕治、お休み」
オレは彼女に手を振る。
「神楽坂も、お休み」
オレはそのまま改札の向こうに消える神楽坂の姿を見送った。
「・・・彼、来てくれるよね・・・」
耕治との待ち合わせ場所となった遊園地の前、ぽつりとつぶやきながら、私は前髪をちょっと弄る。
家を出る前から何度も何度も繰り返している行為だ。
我ながら、一体何をやって居るんだろうかと思う。
でも、そわそわと落ち着かないこの気持ちは何かをしていないと紛れそうもない。
「この格好、おかしくないよね・・・」
一人ごちながら、私はもう一度自分の格好をチェックする。
大きめのダッフルコートにその下はショートパンツ、頭には赤いヘアバンド、リュック・・・ちょっと子供っぽいかなとは思うが、それなりに可愛いコーディネートじゃないのかとは思う。
でも彼・・・耕治はどう思うのかな?
それを考えると何となく居ても立っても居られない・・・
そして私の指先はまた前髪へと伸びる。
この繰り返しばかりだ・・・
私はちらっと時計に目をやる。
12時45分。
まだここへ来て5分しか経っていない。
何だか無性に浮き立つ心そのままに、私は待ち合わせの時間20分も前にここにたどり着いていたのだ。
まるで小学生並の行動パターンに私自身呆れているが、いくら初めてじゃないとはいうものの、こんな経験があまりない私なのだから仕方がない・・・
私はもう一度周囲を見回した。
日曜日なので当然の事ながらそこには家族連れやカップルで一杯だ。
今までなら、羨望の的でしかなかったそれらも、今日ばかりは違う。私ももう少しでそうした人たちと同じになれるんだなと思えば、自然と柔らかい視線で彼らを見ることが出来る。
わーい、と言う甲高い歓声が私の背後からした。
声のした方を振り返ると、5歳くらいの男の子が、余程嬉しいのか元気良く走り回っている。
自然と笑みが浮かぶような幸せな光景だ。
だが石にでもつまずいたのか、男の子は私の目の前で、どてっと豪快に転ぶ。
それも顔面から・・・
そして顔を上げた男の子はくしゃくしゃの表情のまま放心し、一瞬の間をおいて盛大に泣き始めた。
私は思わず駆け寄ると、彼を抱き起こした。
それでも、男の子は泣きやまない。
私の腕の中でただわんわんと泣くだけだ。
私はにっこりと微笑みながら、彼に語りかける。
「ほら、もう泣かないの・・・キミは男の子でしょう?いつまでも泣いているとみんなに笑われちゃうよ」
私はそう言いながらにっこりと微笑んだ。
ふっと男の子は泣きやむ。
どういう訳か、私たち姉妹はこれが得意だ。子供には奇妙なくらい懐かれると言うのか、好かれると言うのか、とにかく私たちが抱いてあげるとどんなに泣いている子でも見事に泣きやんでくれるのだ。
案外私は保母さんなどが似合うのかもしれないなとも思う。
私は男の子を起きあがらせてあげると、身体についた埃を軽く払う。
「うん、そうだよ。男の子はね、しっかりしなきゃいけないんだよ・・・」
彼はほうっとした顔で私を見つめている。
心持ち頬が赤いのは何故だろうか?
「あきひこ!」
向こうの方からお母さんらしい人が慌てて駆けてくるのが見える。
そして私が男の子をあやしているのを見ると、深々と頭を下げた。
「どうも申し訳有りません。ウチの昭彦がご迷惑をお掛けしたみたいで・・・」
「迷惑なんて事は有りませんよ・・・あきひこ君、しっかりしてるもんね?」
恥ずかしそうに頷く男の子。
その親子は何度も何度もお礼を言いながら歩み去っていった。
私は軽く手を振りながら見送る。
と、私の背後からくすくす笑う声がした。
「・・・あの子、初恋の相手がキミになるかもしれないね・・・」
誰なのかは見る迄もない。
私は少しむっとして振り返らない。
「・・・酷いのね。さんざん待たせておいて、ずっと見物していたの?」
「ごめんごめん・・・でも待ち合わせの時間まではまだ10分も有るんだけれど・・・」
私はぷっと吹きだした。
自然と浮かんでくる笑みはもう我慢できない。
「・・・いいわよ、今日は許して上げるから・・・その代わり・・・」
「その代わり?」
「私を遊園地に連れてって」
私は満面の笑顔でくるりと振り返る。
そこには私と同じように笑みを浮かべた耕治が立っている。
「仰せのままに・・・お姫様」
私の格好を間近で見て耕治はちょっと目を細める。
「訂正・・・ちょっと可愛いお姫様・・・」
「耕治・・・ちょっと休憩しない?」
「あ、オレも賛成」
私たちはベンチに腰を下ろすと、ふぅっと大きなため息をつく。
私たちはとにかく子供に返ったようにとにかく遊んだ。
男の子、女の子、年上、年下、学校・・・
そんな違いを忘れて、ひたすら楽しんで、笑って・・・
そして気が付くと時間は既に3時を過ぎている。
ちょっとお腹が空いてくる頃合いだ。
私はちらっと、傍らの耕治を見ると、彼は空を振り仰ぎ、何事かを考えている。
その横顔を私は無条件でステキだなと思う。
でも・・・私は彼に伝えなくちゃいけない事がある筈なのに・・・
どうやったら彼に話すことが出来るの?
肝心なときには勇気が出ない私は、ずるずると結論を引き延ばすばかりだ。
「どうしたの?」
「あ・・うん・・・ねぇ耕治、何か飲みたくない?」
「そうだね」
「じゃあ、ちょっとそこの売店に行って来るよ」
「頼むよ・・・オレ、コーヒーね」
「分かった」
私はぴょんと跳ねるように立ち上がると、さっき見かけたお店の方へと駆けだした。
オレは走り去る神楽坂の後ろ姿を見送りながら、ほっとため息を付く。
いつの間にか、ずるずると流されるようにオレはここまでやって来てしまった。
もちろんオレ自身、彼女と過ごした時間が嫌だったわけではない。むしろ何物にも代え難い大切な時間だ。
だがそれだけにオレは今のこの幸福な時を失いたくないと思い始めている。
本当は彼女にはっきりと伝えなくてはいけない事があるはずなのに・・・
肝心なところでは相変わらず勇気が出せない。
泣きたくなるくらい情けない話だ。
「お待たせぇー」
可愛い声にオレが振り仰ぐと、目の前に笑みを浮かべた神楽坂の顔があった。
オレはしばしその笑顔に見とれる。
今日の彼女は本当に愛らしい。きっと天使の微笑みとはこういう笑顔のことを言うのだろうなとオレは実感した。
「どうしたの?」
「何でもないよ・・・」
そう言いながらオレの視線は神楽坂が手にした物に注がれる。
「?」
たい焼き??
「えへへへ・・・美味しそうでしょ」
オレは呆けたように頷く。
「実はさっきから目を付けていたんだ・・・一緒に食べよう」
「ああ」
オレは手を差し出してたい焼きと缶コーヒーを受け取った。
どっちも暖かい。
二人はしばし、食べることに専念する。
「ねぇ耕治・・・」
「うん?」
「夏休みの・・あの時も、こうして二人で食べてたよね・・・」
「うん・・・」
「あの時は本当に嬉しかったな・・・」
横目で伺うオレの瞳は、何か言いたげな神楽坂の視線とぶつかる。
オレは黙って見つめる。
しかし、彼女の口が開かれることはなかった。
それからオレ達は閉園時間まで何もかも忘れる様に遊びに遊び、夕暮れを眺めながら家路につくこととなった。
流石にまだ2月というだけ有って、この時間になると風が冷たい。
神楽坂はちょっと寒そうに首をすくめる。
オレは彼女の首に黙ってマフラーをかけてあげる。
「えっ?」
「だって寒そうだったから・・・」
オレは照れくさいからちょっとぶっきらぼうに答えた。
すると彼女は黙ってオレに身体を持たせかけて来る。
オレはぎこちない仕草で彼女の肩に腕を回す。
その日、ほんのちょっとだけ二人の距離は近くなった様な気がした。
「じゃあ、耕治・・・また明日ね」
別れ際、少しもじもじとしながら神楽坂は言う。
「あ・・・ごめん、実はオレ明日から、試験があってしばらく会えないかもしれないんだ・・・」
「・・・そうなんだ・・・ちょっと残念だな・・・」
彼女は悲しそうに瞳を伏せた。
オレの心はすこしチクリと痛む。
「・・・本当にごめん・・・」
「ううん、いいの・・それよりも試験頑張ってね」
「ああ。」
「じゃあ・・・またね・・・耕治」
「またな・・・」
私は家に帰るなり、ベッドに横たわった。
そっと手の平を胸に当ててみると、そこは今でもどきどきしている。
私は瞼を閉じたが、すると自然に浮かんでくるのは耕治の笑顔だ。
私はそっと肩を抱き寄せる。
まるでやけどの後のようにひりひりとするそこは、先ほど耕治の腕が触れた場所。
私は悲しくなって涙が出そうになる。
ダメだよ・・あの人を好きになっちゃ・・・もうすぐ・・・もうすぐ会えなくなっちゃうんだから・・・
前半あとがき
皆様こんにちわ。
怒螺拳です。
今回の「二の喜劇」ですが、ちょっと長くなりそうですので
前後編という形にさせていただきました。
取りあえずその前編です。
で、・・・うーん。どこが「喜劇」なんだと思っているでしょうね。読まれた方は・・・
まぁその辺りはおいおいと言うことで・・・
なお劇中の「ジロー」君は「NORTH BOOK CITY」のじろーさんから
お名前を拝借していたりします。(笑)
さてこの二人後編ではどうなりますことやら・・・