同級生2

折れた翼<中編>
<Story Of Sakurako Sugimoto & Yui Narusawa>



12月28日

.....唯が泣いていた。いや、正確に言えば泣かされていた。
唯の回りには数人の、小学生らしきガキ共がニヤけた顔で、口々に何かを言っているようだった。
そして、同じように小学生の唯は、しゃがみ込み、両手で目をこすりながら泣いていた。
.....小さな頃の唯は、よくいじめられて泣いていた。原因は、家族のことだ。
唯には父親が居ない。それに兄弟でもない俺と一緒に暮らしている。
小学生である奴等にはその意味など分からないだろうが、
おそらく奴等の親が話している口調から俺や唯を差別できる匂いを嗅ぎ取り、
その事で唯をからかっているのだろう。
俺は無性に腹が立った。俺の大切な....妹である唯を奴等は泣かしている。
俺は奴等の前に飛び出そうとした。だが、それよりも早く
「てめぇら!!唯をいじめてんじゃねぇ!!」
その場にいた子供たちと同じくらいの年頃だろうか、半袖半ズボンの男の子が
唯をかばうように奴等の前に飛び出し、奴等に飛び掛かる。
「や、やべぇ!!・・・・・が来た!!」
途端、それまで唯をいじめていた奴等は、蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。
しばらくは奴等を追い回していた男の子だったが、やがて唯の前に戻ってくると、
唯の頭を軽くポンポンとたたいた。
「ほら、唯。いつまでないてんだよ。もうだいじょうぶだから、いいかげんになきやめ。」
それを聞き唯は、しゃくりあげながらも立ち上がり、頭一つ高い男の子を見つめる。
「ありがとう、お兄ちゃん。」
そう、唯を助けた男の子は小さな頃の俺だった。
唯は俺の大切な妹だ。唯を泣かす奴等は許さない。
誰かに言われたわけではなかったのだが、小さな頃から俺にとってそれは絶対だった。
だが.....
「今はおまえが唯をなかしてるんだろ!」
小さかった頃の俺が、今の俺を睨み付けながら叫んだ。
気がつくと、先ほどまで小学生だった唯が高校生の唯、現在の唯になっていた。
だが....その表情は、泣いてこそはいなかったがとても悲しそうだった。
.....何故か無性に胸が痛くなった。
だが、小学生の俺はそんな俺にはかまわず、更に叫ぶ。
「なにが唯をなかせるやつはゆるさないだ!今唯をなかせているのはおまえのくせに!!」
”俺にはなんで唯が泣いてるのかなんて分からない!!”
俺は叫び返そうとした。だが、何故か声が出ない。
それでも俺の意志は小学生の俺に伝わったらしい。
「わからない?うそをつくな!ほんとうはわかってるんだろ!
だけどわかってることをりかいしちまったらおまえのほんしんにきづいちまうから!
だからきづかないフリをしてるだけだろ!!」
”何がだ!?唯は俺の大切な妹だ!今も昔も変わらない!!”
「うそつき!!いまのおまえは唯のことをたいせつな妹だなんておもってない!
おまえはそうおもいこむことで唯へのきもちちをいつわっているんだ!!」
”止めろ!!言うんじゃねぇ!!”
「やめるもんか!唯をなかせないってちかったくせに!!唯はおまえのことを!!」
”止めろ!!”
「おまえだって唯のことを!!」
”止めろーーーーーーー!!!!”


12月28日 AM10:00

.....目が覚めると、全身を倦怠感が包んでいた。どうやら悪い夢を見たらしい。
夢の内容は覚えていないが、体にまとわりついている汗が、悪い夢だったことを物語っている。
”.........ちっ”
何故かいらいらする。無性に腹が立った。
だが何故、そんなに苛ついているのか分からない。
しばらくの間ベッドの上に横たわっていたが、いつまでもそんな事をしているわけにはいかない。
俺は服を着替えると、リビングへと降りていった。

「あ、お兄ちゃん、おはよう。今日は早いね。」
リビングに入った俺に、唯がにこにこしながら話し掛けてくる。どうやら、この前プールに
付き合ってやったことが嬉しかったらしく、最近はずっとご機嫌のままだ。
だが、今の俺にはそんな唯の笑顔すら煩わしく感じられた。
「ねぇ、お兄ちゃん。今日は何か予定あるの?」
放っておいてくれ・・・・・・
俺は一人になりたいんだ・・・・・・・
「......俺にどんな予定があったって唯には関係無いだろ....」
「......それはそうだけど...」
「いつまでも子供じゃねぇんだから俺が何をしようと勝手だろ!!」
急に声を荒げた俺に、唯は驚きの表情を見せた。
...いや、驚いたのは俺自身も同じだった。
何故、急に怒鳴ってしまったのか分からなかった。
俺は唯に謝ろうと口を開きかける。だが、それよりも早く
「.....そうだよね...お兄ちゃんが何をしようとお兄ちゃんの勝手だよね...」
唯は寂しそうに呟くと、リビングを立ち去る。
唯の去ったリビングには、更にいらいらをつのらせた俺だけが残された...


12月28日 AM10:10
鳴沢 唯

.....お兄ちゃんには関係無くても、唯には関係あるんだよ.....
唯はお兄ちゃんといつも一緒に居たいんだよ.....
なんでお兄ちゃんは唯を遠ざけたがるの?
小さな頃から一緒に居るから?
同じ家に住んでるから?
唯が.....お兄ちゃんの”妹”だから?
それでも唯はお兄ちゃんと一緒に居たいんだよ。
嫌われたった、避けられたって、お兄ちゃんと一緒に居たいんだよ.....
妹としてではなく.....一人の........


12月28日 PM2:00

俺はいつも通り、桜子ちゃんの入院している病院に居た。
最近、午後2時になると自然とここに足が向く。
桜子ちゃんと話す一時は、俺にとっても楽しい時間だったからだ。
.......だが、今日は彼女と話していても心から楽しむことができなかった。
.....原因は分かっている。
唯だ。
何故か唯のことが気になる。
「...........」
朝、唯に向かってそっけない態度を取ってしまった事を気にしているわけではない。
そんな事はいつもの事だ。
「...........?」
俺にも原因が分からない。だがどうしても唯の顔が頭から離れない。
「りゅうのすけ君!」
「....え?」
桜子ちゃんの言葉で俺は我にかえった。
見ると桜子ちゃんは心配そうな顔で、俺の顔を覗き込むように見ていた。
「どうしたの、桜子ちゃん?」
「それは私の台詞よ。ぼーっとして。...大丈夫?体の調子でも悪いの?」
「そんな事ないよ。どうして?」
「だって....私が話してた事、聞いてなかったでしょ?」
そう言うと彼女は、上目使いで俺を見やる。その顔はちょっと恨めしそうだ。
事実、俺は彼女の話を聞いていなかった。
「......ごめん。何の話だっけ?」
素直に謝る俺。言い訳なんて、男らしくない事はしたくない。
すると彼女は、しばらく不満気な瞳で俺を見ていたが、やがて小さなため息を付き
ニッコリと微笑んでくれた。
「今回は許してあげる。......ところで、12月30日の夜10時、空いてる?」
「夜10時?.....大丈夫だけど、どうして?」
「......ここに来てほしいの。」
「...え?」
俺は疑問の声を上げた。
彼女の言葉を聞いていなかったわけではない。
「あのね...12月30日の夜10時に会いに来てほしいの。」
「夜10時って...大丈夫なの?」
彼女は病気の為、殆どの時間をベッドの中で過ごさなくてはいけない。
彼女が起きていられる時間は、午後2時から午後5時までの3時間だけのはずだ。
それなのに午後10時に起きていた大丈夫なのか?
「私の体の事なら大丈夫だから。最近すごく調子が良いの。」
彼女の言うとおり、最近の彼女は初めて会った頃に比べるとかなり顔色が良い。
でも、だからと言って夜10時に起きていても大丈夫なのだろうか?
俺は自分の心配をそのまま口にした。すると彼女は
「私の事なら大丈夫だから.....会いに来てほしいの...話したい事が...あるから...」
真剣で、まっすぐな瞳で俺を見つめる。
”..........断れないよな...”
...確かに体に良くない事は確かだ。
だが、精神的には良い事なのかもしれない。
いつも同じ毎日の繰り返しでは気が滅入ってしまうだろう。
「.....分かった。30日の午後10時だね。」
迷った挙げ句、俺は承諾の意を彼女に伝える。
すると彼女は心から嬉しそうに微笑みながら、大きく頷いた。


12月28日 PM3:00
杉本 桜子

今日あの人に30日の事を言ってしまった。
でも...全ての事を言ったわけではなかった。
あの人は驚くだろうか?
...多分驚いて、私を止めるだろう。
だけど....その日だけは私を普通の女の子として扱ってほしい。
病人としてではなく、あの人の回りにいる女の子と同じように扱ってほしい。
そうすれば....私も勇気が出せるかもしれない。
あの人に、私の気持ちを伝える為の勇気が。
でも.....今日のあの人は、どこか様子がおかしかった。
いつもは色々な事を話し掛けてくれるのに、今日は殆ど話してくれなかった。
私が話し掛けても何処か上の空で...
もしかしたら、私と話をするのが飽きたのかもしれない。
もしそうだったら.....私はどうした良いんだろう.....



12月29日

......俺は何をやってるんだろう。
正体の分からない苛立ちを唯にぶつけ、桜子ちゃんの前では唯の事を考えている......
俺は...唯の事をどう思ってるんだろか?
大切な存在である事は今も昔も変わりは無い。
俺にとって大切な妹であり、守るべき家族でもある。
唯がいじめられないようにいつも一緒に居るようにしたし、俺のいないところでいじめられていたら
いつでも駆けつけた。
だが...今はどうだろうか?
........俺は唯を遠ざけている。
俺と唯が同じ家で暮らしている事を、回りからとやかく言われない為、
その事で唯がいじめられないようにと思っていた。
だが、本当にそうなのだろうか?
今の唯は誰からも好かれている。
もし俺と唯が一緒に居る事を回りの人間が見たとしても、唯が否定すれば誰も何も言わないだろう。
...どうして俺は唯を遠ざける?
唯は俺の事を血の繋がった兄のように慕ってくれている。
昔も.....今も。
俺が学校へ行くときも、
「一緒に学校へ行こうよ。」
と言ってくる。
だが俺は、唯を避ける。
.....唯がもう、大人になり俺が必要なくなったと思ったからだろうか?
.....分からない.....

俺は...桜子ちゃんの事をどう思ってるんだろうか?
最初は単純に可愛い子だと思った。だから話をしたかった。
でも今は...彼女の為に何かして上げたいと思ってる。
俺に彼女の病を治す事は出来ない。だけど、何かしてあげたい。
俺には彼女の話し相手になって彼女の退屈を紛わす事しか出来ないけど、
それでも何かしてあげたい。
だから俺は彼女に会いに行く。
.....いや、違う。俺は彼女の笑顔が見たいんだ。
もちろん、彼女の為に何かしてあげたいと言うのは嘘ではない。
だが、それと同じくらい、俺は彼女と一緒に居たいと思ってる。
俺のくだらない冗談にも、彼女は嬉しそうに笑ってくれる。
俺は.....彼女に惹かれている。
彼女の嬉しそうに笑う顔も、寂しげに微笑む顔も、俺の話の内容に驚き、目を丸くしている顔も。
俺はそんな彼女に.....惹かれている。

俺は何をやっているんだろう?
明日は桜子ちゃんと約束している....
でも今日は.....誰にも会いたくない...



12月30日


12月30日 PM9:50

昨日は一日中、部屋に居た。そして.....考えた。
だが、それでも答えは出なかった。
俺は何をやっているのか?
唯や桜子ちゃんの事を...いや、桜子ちゃんをどう思っているのかは分かっている。
唯の事をどう思っているのか、それが分からなかった。
それでも時間は過ぎて行く。
そんな気持ちのまま、俺は桜子ちゃんに会いに行った...

時刻は既に、9時50分を回っていた。だが今日は、桜子ちゃんの病室の明かりが点いている。
”.....本当に大丈夫だろうか?”
彼女は普段のこの時間は寝ていなければならないはずだ。
それなのに今日は...早いところ彼女の話とやらを聞いて、休んでもらった方がよさそうだ。
俺は急ぎ彼女に会う為、彼女の部屋の前の木に駆け寄ろうとした。
ところが
「りゅうのすけ君」
「え!?」
誰かが俺を呼び止めた。いや、今の声は確かに桜子ちゃんだった。
俺は慌てて辺りを見回した。すると
「ここよ、りゅうのすけ君。」
再び彼女の声がした。俺は慌てて彼女の声がした方を振り返った。
彼女が.....立っていた。
病院の入り口で、わずかな月明かりに照らされて彼女は立っていた。
彼女は俺を見ながら微笑んでいた。
「こんばんは、りゅうのすけ君。」
呆気にとられる俺。俺はてっきり、いつもと同じように会うと思っていた。
彼女が病室のベッドの上、俺が木の上。
てっきりそう思っていた。
「こんばんはって...ベッドで寝てなくて大丈夫なの!?」
俺は慌てて彼女に駆け寄る。
「大丈夫よ。最近体調が良いから。」
彼女は何事もなかったかのように平然と微笑んでいる。確かに顔色も悪くはない。
それでも、彼女の体を心配せずにはいられなかった。
でも...一昨日の彼女の様子では、話を聞くまでは病室に戻ってくれそうにない。
早く彼女の話を聞いてベッドに戻ってもらわなくては。
そんな俺の考えが顔に表れていたのか、急に彼女の顔から微笑みが消え、憂いに満ちる。
「.....あのね...今日だけは.....普通の女の子として扱って欲しいの...
病気の私としてではなく、普通の女の子の私として.....」
悲しそうだった。
...俺も悲しかった。彼女の言っている事は何でもない事だ。
普通の女の子なら当然と思っている事だ。いや、そんな事なんて考えてすらいないだろう。
”普通の女の子として扱う.....”
それすら望まなくては叶わない....
何故彼女がそんな目に合わなくてはならないんだろう...
それが悲しかった。
俺に...その願いを拒む言葉は見付からなかった。
「.....分かったよ。」
「ありがとう...」
俺の言葉を聞き、彼女は嬉しそうに微笑む。
わずかな月明かりに照らされた彼女の顔は...可愛かった。
この世の者とは思えないくらい....
可愛いと言う表現に、この世の者とは思えない、と言うのは変かもしれないが、
それ以外に表現のしようがなかった。
「それで俺に話したい事って?」
俺は内心を悟られないように、彼女に話し掛けた。
だが、彼女はその問いには答えずに
「あのね、この病院の裏に森があるの。そこに行こう。」
「.....森?」
「うん。病院の先生が話してくれたんだけど、この辺りって昔、森だったらしいの。
殆どは開発でなくなっちゃったらしいんだけど、少しだけ病院の裏に残っているんだって。
私、そこを見に行きたいの。」
「う〜ん、森か...」
「ねぇ、早く行こうよ!」
俺に考える暇を与えず、彼女は俺の手を取って走るに近いスピードで歩き出す。
「ちょ、ちょっと。そんなに急いだら危ないよ!ただでさえ暗いんだから!」
「うふふふふ。大丈夫よ。.....ねぇ、これってデートよね?」
「え?」
「だって、手をつないで歩いてるじゃない。」
彼女は歩くスピードは落とさず、俺の考えてもいなかった事を口にした。
手をつないで歩いたら、即デートと言うわけではないが、俺は彼女とデートしているんだ。
考えてもいなかった。
.....そうなんだ...俺は彼女と手をつないでいるんだ...
彼女の手は、思っていたとおり柔らかくて暖かかった。
「そう...だね。デートだね。」
「うふふふふ。そう。私は今、りゅうのすけ君とデートしてるの。」
彼女は俺の方を振り返り、本当に嬉しそうに笑って見せた。

「.....ここがそうだね.....」
そこは確かに森だった。辺りを木々に囲まれ、町中の騒然とした音が遮られている。
.....今までこの街に住んでいたのに、こんな場所があったなんて知らなかった。
「...静かだね。」
彼女は俺の手を放し、一歩離れると俺を振り返った。
「そうだね...車の音も聞こえないし、冬だから虫たちの鳴き声も聞こえない...」
「今.....ここにいるのは私とりゅうのすけ君だけなんだね...」
「うん。...ところで話したい事って何?」
俺の問いかけに彼女は、恥ずかしいようなちょっと困ったような顔をした。
「えーっと、あのね.....」
彼女が何か言いかけた時だった。空から何かが舞い降り、彼女の言葉を遮った。
「...雪......」
それは雪だった。真っ白い雪。夜空から舞い下りる...天使の羽.....
彼女は右手を伸ばし、それを受け止めようとする。
「.....奇麗だね...」
.....奇麗だった。雪ではなく、彼女が。
月明かりに照らされ、雪を手のひらで受け止めようとする少女。
その肌は、雪と同じくらい白い。
幻想的な光景だった。少女の愛らしさと、女性の美しさを持ち合わせた彼女。
18という年齢の女性だけが持ちうる魅力。
子供でもなく、大人でもない。
俺は急に不安になった。
何故か彼女がこのまま、俺の前から消えてしまうような気がしたからだ。
「...雪.....止んじゃったね。」
彼女の声が俺を現実に引き戻した。確かにそこに存在している彼女の声。
俺は安堵の息をつく。
だが、その時になって俺は初めて気づいた。彼女は名残惜しそうに空を見上げている。
その彼女の顔色が、月明かりの為だけではなく青白かったのだ。
「顔色悪いけど...体、大丈夫?寒くない?」
俺は心配になって彼女に問い掛けた。
だが、彼女はそれが不満だったらしく、可愛らしく唇を尖らせて見せる。
「今日は普通の女の子として扱ってくれるって約束したじゃない。」
俺は思わず苦笑いを浮かべた。確かに俺は彼女と約束した。だけど...
「俺は普通の女の子の顔色が悪かったら心配するよ。
桜子ちゃんは俺の顔色が悪くても心配してくれないの?」
「え?...それは心配するけど......心配する。」
彼女は困ったような微笑みを浮かべて見せた。俺はそんな彼女に微笑みかける。
「それでは、普通のお嬢様にお尋ねいたします。
顔色が優れないようですが、大丈夫でございますか?」
「...少し...寒いですわ。」
彼女も俺に合わせて”お嬢様”な口調で答えてくれる。
俺は彼女と顔を見合わせ笑った。
「うん、ちょっと体がだるいから...木に寄りかかってるね。」
そう言うと彼女は側にあった木に体を預ける。
「もう...戻った方が良いんじゃない?」
俺は本当に心配になってきた。だが、彼女はちょっと辛そうにしながらも、首を横に振る。
「もう少しだけ.....もう少ししたら病室に戻るから....まだ大丈夫だから.....」
そう言う彼女だったが、その具合は刻々と悪くなっているように見えた。
先ほどまでは青白かった顔も、真っ青に近い色になってる。
俺は彼女に掛ける為に上着を脱ぎ、彼女に近づいた。
そして腕を伸ばせば彼女に触れられると言う距離まで近づいた時.........
彼女の体がゆっくりと俺の方に倒れてきた。
「さ、桜子ちゃん!?大丈夫!?」
俺は慌てて彼女を抱き留める。やっぱりもっと早く病室に戻すべきだったか!?
焦りと後悔が俺の中をよぎる。だが...
「.......暖かい。」
俺の腕の中で彼女が小さく呟くのが聞こえた。
「りゅうのすけ君の腕の中.....暖かい.....」
...どうやら彼女は体調が悪くて倒れ掛かってきたわけではなかったらしい。
俺はちょっとホッとする。
.....え!?わざと俺に倒れ掛かってきた!?それって.....
「さ、桜子ちゃん!?」
「あのね.....ちょっと寒いから.....抱きしめて欲しい....」
彼女は恥ずかしそうに、まるで息を吐き出すように呟いた。
”彼女が...愛しい....。”
俺は何も言わず、彼女の肩に俺のコートを掛けると、その上から彼女を抱きしめる。
腕の中の彼女は小さかった。コートの上からだというのにも関わらず、
普通の女の子よりも小さく感じられた。
俺は、彼女の存在を確かめるように少しだけ力を込める。
すると彼女も俺の背中に手を回し、キュッと力を込めた。
「暖かい.....それに...夢が一つ叶った.....」
彼女が小さく呟く。
「.....夢って?」
「.....あのね......」
彼女は俺の腕の中から顔だけ起こすと、大きな瞳で俺を見詰めた。
...彼女の瞳に俺の顔が映っている。
多分、俺の瞳にも彼女の顔が映っているんだろう。
「.....今は言えないの...もっと...勇気が出せたら...
その時は聞いてくれる?叶った夢とまだ叶っていない夢。」
彼女はじっと俺の顔を見詰めている。俺は彼女に向かってゆっくりと頷いて見せた。
「分かった。桜子ちゃんが勇気を出せるまで、俺が側にいる。」
「.....ありがとう.....これ以上我が侭言ったらりゅうのすけ君に嫌われちゃうから
今日はもう病室に戻るね。」
彼女はそう言いながら、ゆっくりと俺から離れようとする。
だが、俺は彼女の体を離さない。
「離れると寒いから.....このまま病院まで戻ろ。」
「.....うん。」
俺は彼女の返事を聞くと、彼女の肩を抱きしめたまま歩き出した。
彼女の温もりを両手で感じながら。

.....その時の俺には分かるはずもなかった。
この病院で.....二度と彼女に会う事はないという事を.....


12月30日 PM10:45
杉本 桜子

結局あの人に伝える事は出来なかった.....
私の気持ちを.....
でも...夢の一つが叶った。
大好きな人に抱きしめてもらうという夢。
今日、あの人は私を抱きしめてくれた。
もちろん、寒そうにしていた私を気遣ってくれたのだろう。
でも.....それでも良い。
確かに、私はあの人の腕の中に居たのだから。
それと...私が病室に戻るまで待っていてくれたのが嬉しかった。
病室に戻り窓から手を振ると、あの人も手を振り替えしてくれた。
嬉しかった....本当に、涙が出るくらい、実際に出てしまったくらい嬉しかった。
私は.....早く元気になりたい。あの人に、他の女の子と同じように見て欲しい。
そうなったら私は...勇気を出して....



12月31日


12月31日 AM8:00

一晩経った今でも、まるでついさっきあったの出来事のように覚えている。
彼女の温もり.....
昨日の晩、確かに彼女は俺の腕の中に居た。
そして、俺に向かって微笑んでくれた.....
”.....会いたい......彼女に会いたい...”
会って俺の気持ちを確かめたい。
そうすれば....今、俺が悩んでいる事の答えが見つかるような気がする...
今日、彼女は一日中検査を受けなくてはいけないと言っていた。
だから、今日は彼女に会う事は出来ない.....
でも...会えないと分かっても...いや、だから余計に.....
....彼女に.....会いたい.....


12月31日 AM8:00
鳴沢 唯

昨日お兄ちゃんは夜に1時間くらい外出していた。
それ自体はそんなに珍しい事ではない。
でも...帰ってきた時のお兄ちゃんの様子がおかしかった。
唯が話しかけても、
”ああ。”
とか
”うん”
とか生返事をするだけで.....
今までは素っ気無くてもちゃんと返事をしてくれた.....
...すごく不安になる......
お兄ちゃんが何処か遠くへ行ってしまうようで.....
でも、唯にはどうする事も出来ない.....
唯がどんなにお兄ちゃんの事を想っていても、お兄ちゃんは唯の事を妹としか思っていない...
...今の唯を好きでいてくれなくてもいい....
ただ、妹としてではなく、他の女の子と同じように見て欲しい....
そうすれば、お兄ちゃんに似合う女の子になれるようにがんばるから.....
お兄ちゃんの為なら.....がんばれるから......


12月31日 AM8:00
杉本 桜子

今日は検査の日。
今日の検査の結果が良ければ、来年から八十八学園に通えるかもしれない。
あの人と同じ、八十八学園に.....
私が入学する前に卒業してしまうあの人とは入れ違いになってしまうけど、それでもいい.....
あの人の通った道を、私も通りたい.....
そうすればいつか、あの人に追いつける日が来るかもしれない.....
いつか、あの人の横を歩ける日が来るかもしれない.....
...でも、昨日あの人と会ってから、胸が苦しい.....
それに体が熱い...熱があるのかもしれない.....
今日の検査結果に響かなければ良いのだけど...



1月1日


1月1日 PM1:45

「あ、お兄ちゃん!明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。」
唯にそう言われて、俺は初めて今日が元旦だという事に気づいた。
正直、一昨日の夜から彼女の事ばかりを考えていたので、すっかり忘れていたのだ。
「明けましておめでとう、唯。今年もよろしく。」
俺もとりあえず挨拶を返す。
と同時に玄関へと向かう。一分でも早く彼女に会いたいからだ。
だが、そんな俺を唯が背後から呼び止める。
「お、お兄ちゃん。何も言ってくれないの?」
「...あ?」
唯の意味不明の言葉に、俺は思わず振り替える。
唯は、着物の袖を口元に当て、ポーズを取りながら俺の方を見ていた。
”....ポーズなんて決めて、何がやりたいんだ?...着物!?”
その時になって初めて、唯が純和風の着物を着ている事に気づいた。
どうやら唯は俺が驚いている事に気づいたらしい、くるりと一回転してみたり、
両肘を曲げてみたりと、色んなポーズを取って見せる。
「どう、お兄ちゃん。唯は一人で着物を着れるんだよ。...似合う?」
そう言いながら唯は、俺に期待のこもったまなざしを向ける。
「はいはい、似合ってるよ。それじゃな!」
俺は面倒くさそうに言い放つと、そのまま家から飛び出す。
子供みたいに口を尖らす唯を残して。


1月1日 PM1:55

...あと5分すれば、いつものように彼女が窓から顔を出すはずだ。
俺の方を見て、微笑みながら...
...早く.....会いたい.....


1月1日 PM2:05

...既に10分が経っていた。だが、彼女は窓から顔を見せてくれない.....
体調でも悪いのだろうか?
”...ちょっと覗いてみようか.....”
俺はいてもたってもいられず、木によじ登り窓の中を覗いてみる。
部屋の中は.....空っぽだった。
彼女が居ないというだけではない。病室にあった彼女の身の回りの物が一切なくなっていたのだ。
”.....退院...したのか?”
俺は呆然とする。
もしかしたらお正月だから自宅に帰っているのかもしれないが、
それにしては病室自体が殺風景すぎる。
彼女の趣味らしかったカーテンや、その他の飾られていた小物なども一切がなくなっていたのだ。
”.....俺の...一人よがりだったのか?”
...何やら虚しくなってきた。
俺は今日、彼女に会って自分の気持ちを確かめた後、彼女に告白するつもりだった。
だが、彼女は俺に一言も言わず退院していった。
彼女にとって俺は、退屈凌ぎの話し相手に過ぎなかったのだろうか?
”.....でも...退院出来たんなら良かったんだよ、な.....?”
彼女が俺に何も言わずに退院していった事は悲しいが、俺が彼女を好きだった事には変わりない。それなら、彼女が元気になった事を素直に喜ぼう。

”そう思わないと.....悲しすぎるよ.....”
俺は複雑な心境で木から降りようとした。
その時、不意に病室の扉が開き、誰かが病室へと入ってきた。
”桜子ちゃん!?”
俺は反射的に木の影に身を隠しながらも、病室の中を盗み見る。
だが、俺の期待に反して病室に入ってきたのは二人の看護婦だった。
木から降りるタイミングを逸した俺は、自然と看護婦たちの話に耳を傾ける。
「でも、可哀相だったよね.....」
「急にだったからね.....」
”.....え?”
何の事を言っているんだ?この看護婦たちは?
「検査の結果は良好だったのにね.....」
「まさか急に死んじゃうなんてね.....」
”.....死んじゃった?検査の結果は良好だったのに?誰が?どうして?”
俺はわけが分からなくなっていた。そうなると自然、木にしがみついていた両腕から力が抜ける。
.....ドサッ
俺はろくな受け身もとれずに地面に叩き付けられる。
だがその痛みと同時に、俺の頭がゆっくりと働きはじめる。残酷な事実を理解する為に...
”カノジョガ...死んだ?”
俺は無意識のうちに立ち上がっていた。
”ドウシテ?カノジョハビョウキデ.....”
その場から逃げ出すように走り出す俺。
”死んだ?ナゼ?オレハ.....イヤダ.....”
「お、お兄ちゃん!?どうしたの!?」
道で唯とすれ違い、俺に気付いた唯が声を掛けてくる。
だが、今の俺の耳には唯の言葉は入ってこない。
”イヤダ....ドウシテ....カノジョハ.....オレハ.....”
いつの間に着いたのか、俺は自分の部屋に居た。だけど.....
”オレハカノジョガスキダッタ.....デモ..カノジョハ.....モウイナイ.....”
俺は家を飛び出した。行くべき場所があったわけではない。何処にも居たくなかったのだ。
”ケンサケッカハリョウコウダッタンダ”
”でも看護婦は言っていた”
”ユウキガダセタラカノジョノユメヲオシエテクレルッテ”
”その彼女はもういない”
”カノジョガユウキヲダセルマデ、カノジョノソバニイルッテヤクソクシタ”
”もう彼女とは永遠に会えない”
”ウソダ”
”嘘じゃない。彼女は.....死んだんだ...”
”カノジョハ...シンダ...”
気が付くと、俺は彼女と最後に会った森に居た。
俺は無意識のうちにしゃがみ込み、あの夜彼女が立っていた辺りに視線を漂わせる。
だが、そこに彼女は居ない.....
「ぅ.....ぅぁぁぁぁ........」
拳を握り締め、地面に向けて叩き付ける。
手加減無しに叩き付けた為、痺れるような痛みが俺の両腕を走り抜ける。
それでも、何度も、何度も、血が滲んでも何度も叩き付ける.....
「.....ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
気が付くと.....声にならない叫びを上げていた。
”どうして彼女が死ななくちゃいけないんだよ!?彼女はただ生きたかっただけなのに!!
彼女が何か悪い事をしたのか!?どうして俺ではなく彼女が死ななければならないんだ!?
俺は今までいろんな奴を傷つけてきた!好き勝手に生きてきた!
だけど彼女は人生で一番楽しい3年間を独りで過ごし.....なのにどうして!?”
何度も、何度も、何度も両腕を叩き付ける.....声にならない叫びを上げながら.....
..................
どれくらいそうしていただろうか、辺りは闇に包まれていた。
俺の喉は嗄れ、両手は真っ赤な血で染まっている。
”.......................
.....どうでも.....いいや.....”
俺の心は虚ろだった。目から入ってくる景色に色はなく、
耳から入ってくる音は俺の中には留まらずに抜けて行く。
”何処にも.....居たくない.....”
俺は緩慢な動きで立ち上がると、何処へ行くでもなく歩き出す。
”.......俺は.......何をしているんだろう...?”
一人町中を歩いていく.....
途中、何度も人にぶつかりながらも、何処へ行くでもなくただ、歩いていく.....
”生きている事に何の意味があるんだろう?”
人にぶつかり、よろめき、それでも目的も無しに歩き続ける。
何度そうやって人にぶつかっただろうか......
「てめぇ!何処見てあるいてやがるんだ!!」
不意に俺は肩を掴まれた。
俺は無理矢理体の向きを変えられ、自然俺の肩を掴んでいる人間を見る。
そこには、歳は俺と同じくらいだろうか、髪の毛を赤茶色に染め、如何にも頭の悪そうな男が
二人立っていた。
「痛ぇなーてめぇーは!肩の骨が折れちまったじゃねぇか!どうしてくれるんだよ!?」
.....普段の俺ならこんなゴミ二つくらいは、睨むだけで追い払う事が出来る。
だが、今の俺にはどうでもいい事だった。こんな奴等が生きていても、
彼女は死んでしまったのだから......
「.....シカトしてんじゃねぇよ!なめてんのか!?てめぇ!!」
どうやら俺の態度が気に食わなかったらしく、そいつ等は俺の両腕を掴むと、
何処とも知れない路地裏へと引きずり込んだ。
そこには.....そいつ等と同じような格好をした奴等が10人ほどたむろっていた。
「......!!.......!?」
奴等が口々に何かを叫んでいる。だが、今の俺の耳には奴等の言葉は入ってこなかった。
俺は無表情のまま、何かを叫んでいる奴等を見ていた。
すると奴等は、下卑た笑いを浮かべながら俺の回りを取り囲みはじめる。
そして....意味のない叫びを上げながら、俺を殴りはじめた。
「.........」
それでも俺は何の抵抗もしない。顔を殴られ口の中を切ったのか、唇から血が流れる。
”でも.....彼女は痛みすら感じる事が出来なくなってしまったんだ....”
何の抵抗もしない俺を、奴等は更に殴り続ける。
だが、今の俺には奴等が言っている言葉も、俺自身が感じている痛みすらどうでも良かった......
いつしか俺は、地面に倒れ伏した。だが、それでも奴等は更に俺を蹴り続ける。その時...
「........!!!」
俺の耳に聞きなれた声が響いた。
”......?”
俺は首だけを動かし、ゆっくりと声のした方向を見た。
そこには、俺に暴行を加えている奴等をかき分けながら俺の方へと走ってくる唯の姿が見えた。
「.....唯...?」
「お兄ちゃん!!!」
唯は泣きそうな顔をしながら俺に向かって走りよってくる。
だが、男達の一人に腕を掴まれてしまう。
「は、離してよ!!」
唯は必死に腕を振り解こうとする。だが、男の力にかなうはずはない。
逆に男は、下卑た笑い浮かべながら唯を更に路地の奥へと引きずり込もうとする。
「お兄ちゃん!!!!」
唯はそれでも俺の方へ来ようと必死にもがく......
”.....俺は何をやっているんだろう?確かに彼女は死んでしまった....でも....”
俺はゆっくりと立ち上がった。それに気付いた奴等の一人が、俺の腹を力任せに蹴り上げる。
.....蹴られた腹が.....痛い.....
俺は思わず膝を付いた。
「止めてーーーーー!!!」
唯は何とか掴まれていた腕を振りほどき、俺の元へと駆け寄ってくる。
「お兄ちゃん!!大丈夫!?」
唯は瞳に大粒の涙を浮かべながら、俺をかばうように奴等の前に立ちはだかる。
「一人を大勢で!!あなた達恥ずかしくないの!?」
...昔から唯はこうだった。人一倍泣き虫なくせに、妙に正義感が強いところがある。
それで自分が傷つくと分かっていても、目の前で傷付けられている人が居たら放っておけない...
”.....そんな唯を.....俺は守ってきた.....”
唯の言っている事は正論だった。だが、頭の悪い奴等にとっては悪口以外の何者でもない。
案の定、奴等は顔を真っ赤にしながら唯に襲い掛かる。
俺の大切な妹である、女の子である唯に.....
「きゃぁぁぁぁぁぁぁ!!」
男達が唯につかみ掛かろうとする。だが、そいつ等は唯に指一本触れる事は出来ない.....
唯の側には.....俺が居るのだから......
俺は拳の痛みに耐えながらも、力を込めた一撃を奴等の一人に放つ。
男は俺の一撃をもろに食らい、壁際まで吹っ飛ばされる。
「..................」
俺は無言で奴等を睨み付けた。先ほどまで無表情だった俺の豹変に驚いたのか、
奴等の動きが止まる。
だが、俺には奴等に付き合って止まってやる義理はない。
一瞬で奴等との間合いを詰めると、力任せに奴等を殴り付けた。
それによって奴等の一人が吹っ飛び、それに巻き込まれて更に一人が倒れる。
「.....残り11......」
俺は低い声でカウントダウンを始める。その声で我に帰ったのか、奴等が一斉に
俺目掛けて殺到してくる。そんな奴等を俺は、力任せに殴り付け、蹴り飛ばす。
次々と、次々と。
.....最初は唯を守る為だった。だが........
”どうしてこいつらは生きているんだ?どうして彼女は死ななければならなかったんだ?
弱いものに暴力を振るって喜んでいるゴミのような奴等は生きていて、
ただ普通に生きたいと望んでいた彼女は死んでしまった......
どうしてだよ?”
俺の中にゆっくりと、言いようのない悲しみと怒りが膨れ上がる。
その怒りをそのまま、奴等に叩き付ける。先ほど自分の腕を地面に叩き付けたように、
何度も、何度も。
いつしか奴等は一人を残して全滅していた。
「すんません!もう二度ととしません!!勘弁してください!!」
残った一人は、土下座をしながら俺に許しを乞う。大勢仲間が居る時は大勢を一人で襲い、
容赦なく殴り付ける。
だが、一人になったら何も出来ない....
俺は許しを乞う男の腹を、爪先で蹴り上げた。苦痛の声をもらしても、容赦無く何度も蹴り上げる。
”死んでしまえばいい.....こいつも...俺も......”
この男を殺してしまったら俺も警察に捕まるだろう。
だがそんな事はどうでも良かった。俺は苦痛の声すらもらせなくなった奴の腹を、
それでも蹴り上げる。何度も、何度も.....。
そして俺は奴の襟を掴み、無理矢理立ち上がらせ奴の顔面に一撃を叩き込もうとした。しかし...
「お兄ちゃん.....もう止めて......」
振り上げられた俺の拳を、唯がそっと掴んで止める。振り替えると唯は....
泣いていた。
「.....唯。」
途端に俺の中から怒りが消えていく。
「お兄ちゃん...お願いだからそんな目をしないで.....
そんなの......唯のお兄ちゃんじゃない.....」
唯は泣きながら俺の腕にしがみつく。だが、路地裏の入り口に集まってきた人だかりに
気付いたのか、俺の腕を掴むと人だかりをかき分けながら走り出す。
怒りが消え、空っぽになった俺は唯に引かれるまま走り出した.....


1月1日 PM9:00
鳴沢 唯

お兄ちゃんの腕を引っ張りながら、何とか唯の部屋までたどり着く。
振り替えるとお兄ちゃんは、感情のない瞳で唯の方を見ていた。
その瞳に唯が映っているのに、まるで唯がここにいる事に気付いていない、
そんな眼差しだった。
「お兄ちゃん......」
悲しくて、悲しくて、涙が溢れてくる。お兄ちゃんがこんな目をしているのを初めて見た。
いつもお兄ちゃんは、子供のように澄んだ目をしていた。
元気で、明るくて、一緒に居ると楽しくなってしまうお兄ちゃん。
だけど今のお兄ちゃんは.........泣いてる......
涙は流してないけど、唯には分かる。唯は、小さな頃からずっとお兄ちゃんだけを見ていたから。
「お兄ちゃん......」
悲しくて、悲しくて、お兄ちゃんを力いっぱい抱きしめた。
お兄ちゃんが何故悲しんでいるかは分からない。だから唯は何も言って上げられない。
だから唯はお兄ちゃんを力いっぱい抱きしめる。お兄ちゃんの悲しみが、唯にも伝わるように。
お兄ちゃんだけに悲しい思いをさせないように......


1月1日 PM9:05

唯が泣きながら俺にしがみついていた。
”どうして唯は泣いているんだ...?”
俺は虚ろな思考でぼんやりと考えた。先ほど、男達に囲まれたのが恐かったのか?
掴まれた腕が痛いのか?
.....どれも違うような気がする。
唯は先ほどから
”お兄ちゃん悲しまないで...”
と言いながら泣いている.......
”.....俺が悲しんでいる?どうして?
.....そうか、彼女が死んじゃったから俺は悲しんでいるのか.....
唯は俺の事を心配してくれてるのか.....”
唯の瞳から流れる涙が、俺の胸にゆっくりと染み込んでいく。鈍い痛みを伴いながら...
”唯を守って小さな頃誓ったのに....俺が唯を泣かしていたのか....”
俺は無意識のうちに唯の頭を撫でさすっていた。その事に気付いた唯が、驚いたような顔で
俺を見上げる。
だが次の瞬間、唯の顔が悲しみに歪む。
「お兄ちゃん...泣かないで......」
え!?俺が....泣いている!?俺は驚いて自分の頬に指を当ててみた。
俺の指に暖かい液体が触れる。
.....涙.....。
彼女の死を知った時も、涙だけは流さなかった。
だが、一度流れはじめた涙は止まる事無く流れ落ちる。
人前では、一度も泣いた事はなかったのに....
人に泣き顔を見られるくらいなら、死んだ方がマシだと思っていたのに....
でも.....唯の前でなら泣いてもいいような気がする.....
唯にだけは......


1月1日 PM9:10
鳴沢 唯

唯の前で初めて涙を流すお兄ちゃんの頭を胸に抱き、唯はゆっくりと話しかけた。
「.....お兄ちゃん...何があったの....?」
お兄ちゃんが答えてくれるとは思っていなかった。だけど、お兄ちゃんは答えてくれた。
ゆっくりと、一言一言噛み締めるように.....
...お兄ちゃんの話を聞いた後、唯は何も考えられなかった。
まるで、ぽっかりと心に穴があいたような...そんな気がした。
唯はお兄ちゃんが好きだった子の事は知らない。
けど.....もしお兄ちゃんが死んじゃったら.....
そう思うと、何も考える事が出来なくなってしまった...
でも、一つだけ唯にも分かる事がある。
お兄ちゃんの事が大好きな唯だから.....その子の気持ちが分かる.....


1月1日 PM10:00

自分でも何故、唯に彼女の事を話したのか分からなかった。だが、気が付くと
俺は彼女の事を話していた。俺が彼女の事をどう思っていたのかも...
答えは期待していない。ただ、誰かに話してしまいたかったのかも知れない。
彼女の事を、思い出の中に仕舞い込む為に.....だが....
「その子も.....お兄ちゃんの事が大好きだったんだね.....」
唯は俺の頭を抱きしめながら、優しい声で話しはじめた。
「でもね、その子は元気で明るいお兄ちゃんが大好きだったんだよ。
それなのにお兄ちゃんが泣いてたら、その子も悲しむよ?」
唯は力強く俺の頭をぎゅっと抱きしめる。
”.....分かっていた。俺が悲しんだって、彼女は決して喜ばない事を。”
「それにお兄ちゃん、約束したんでしょ?元気で、明るくて、辛い事があっても
くじけない男の子でいるって。」
”.....覚えている。彼女の声も、彼女の言葉も、彼女の笑顔も。”
「だったら...元気を出さなくちゃ。お兄ちゃんは一人じゃないんだよ?」
唯の優しい声が、心地よく耳に響く。小さな頃からずっと一緒だった唯。
”高校生になって...唯を一人の女性として意識するようになってから、
唯の事を避けていたけれど...俺は唯の事を見ていた。”
「唯は.....どんな時も.....大好きなお兄ちゃんと一緒に居るから。
ずっと、いつまでもお兄ちゃんと一緒に居るから.....だから泣かないで.....」
”...ずっと否定していた.....。
兄として、唯を愛する事が純粋だと思っていたから.....
その想いが、一人の男としての想いに変わる事は不純だと思っていたから.....”
「お兄ちゃんが唯の事を好きでいてくれなくてもいい......でも.....
お兄ちゃんの事をもっと話して欲しい。楽しい事も、嬉しい事も、辛い事も、悲しい事も。
そうすれば、唯もお兄ちゃんと一緒に喜んだり悲しんだり出来るから。
だから...もっといっぱい唯に話して...」
唯が優しく俺の髪を撫でてくれる。優しく、優しく......
幼子をあやすように...
「.....唯はね...お兄ちゃんの事がずっと好きだったんだよ...
こんな時に言うのは卑怯だと思うけど.........
こんな時じゃないとお兄ちゃんは唯の気持ちを聞いてくれないから言うけど....
ずっと、お兄ちゃんとしてだけじゃなく、一人の男の子として好きだったんだよ....」
”...気付いていたさ...俺が唯の事を女性として意識し始めた時から...
でも、気付かないフリをしていた。自分の気持ちを認めたくなかったから...
だけど今なら...”
俺は唯の背中に両腕を回し、そっと抱きしめる。唯もそれに応えるように、
俺の首に手を回し、優しく抱きしめ返してくれる。
”...今は...言葉にして伝える事は出来ないけど.....
いつか.....きっと......
彼女の事を、思い出として仕舞える事が出来た時に...”
唯の優しさと温もりを感じながら、俺はいつまでも涙を流していた.....



1月2日


1月2日 AM6:30
鳴沢 唯

「.........」
窓から入ってくる朝日で目が覚める。
”......頭がうずくように痛いし、目が腫れぼったい.......
どうしてだろう......”
そんな事を考えながら、辺りを見回す。そして、自分が服を着たまま寝ていた事に気付いた。
途端、何故服を着たまま眠っていたのかを思い出した。
”....そっか...昨日泣いているお兄ちゃんを抱きしめたまま.....眠っちゃったんだ...”
................
「お兄ちゃんは!?」
慌てて辺りを見回す。だけど、唯の部屋にお兄ちゃんの姿はない。
「お兄ちゃん!!」
唯は部屋を飛び出すと、お兄ちゃんの部屋をノックする。
....もしかしたら、叩いていると言った方があってるかもしれない。
昨日のお兄ちゃんの様子を思い出し、言いようのない不安に襲われる。
その時....
「どうしたんだよ、朝っぱらから?」
お兄ちゃんの部屋の扉がゆっくりと開き、お兄ちゃんが顔を見せる。
目は多少赤みがかっていたけど、表情はいつも通りのお兄ちゃん。
”.......良かった...”
そう思った瞬間、体から力が抜け廊下に座り込んでしまった。
「っと、こら唯!寝ぼけて廊下で寝るなよ。風邪ひくぞ。」
そう言いながらお兄ちゃんが唯の手を掴み、立ち上がらせてくれた。
だけど何故かお兄ちゃんは、ちょっと照れたような顔でそっぽを向いていた。
”.......あ..”
昨日の夜の事を思い出す。
”.....お兄ちゃんに....抱きしめられちゃったんだ....”
自分でも、今の唯の顔がトマトみたいに真っ赤になっていくのが分かった...


1月2日 AM6:35

...昨日の夜、泣き疲れて眠ってしまった唯をベッドまで運び、自分の部屋に戻った。
俺も自分のベッドに入り、眠ろうと思ったのだが結局眠れず、
朝まで彼女...桜子ちゃんの事を考えていた。
”彼女が俺の前から居なくなって.....二度と会えなくなって.....”
どんなに吹っ切ろうと思っても、そんなに簡単に吹っ切れるものではない。
俺は彼女が好きだった。楽しそうに微笑む彼女も、寂しげに微笑む彼女も、
拗ねて可愛らしく口を尖らせる彼女も。
そして...彼女も俺の事を好きでいてくれたんだと思う。
”だったら.....いつまでもくよくよしてたら彼女に嫌われちまうな...”
そう思うと、昨日までの”どうしようもない悲しみ”が薄れ、
変な言い方だが”穏やかな悲しみ”に変わっていく。
彼女と過ごした時を思い出し.......
その事を覚えている限り、彼女がずっと側に居てくれるような...そんな気がした。
”.......唯の...おかげかな...”
昨夜、泣き付かれるまで俺を抱きしめていてくれた唯。
俺の為に泣いてくれた唯。
小さな頃からいつも俺の隣に居た唯。
抜け殻になっていた俺を呼び戻し、側に居てくれた....唯。
”......俺って浮気性なのかもしれないな...”
唯の事を考え、優しい気持ちになっていたことに気付き、俺は思わず苦笑いを浮かべる。
その時
「お兄ちゃん!!」
部屋の外で唯の声が聞こえた。唯の事を考えていた俺は驚きながら、
それでも驚きを顔に出さないように気を付けながら扉を開けた。
「どうしたんだよ、朝っぱらから?」
扉を開けると唯は、せっぱ詰まった顔で立っていた。だが、俺の顔を確認すると、
安心したように廊下に座り込んでしまった。
「っと、こら唯!寝ぼけて廊下で寝るなよ。風邪ひくぞ。」
俺は唯の手を掴み、立ち上がらせようとした。だけど、どうしても唯の顔をまっすぐ見れない。
.....昨日の夜、あんな事があったから照れくさいのだ。
唯は俺に手をひかれ、ゆっくりと立ち上がる。横目でちらっと唯を見ると、
唯の顔も真っ赤になっていた。
”.....余計照れくさくなるから赤くなるなよ......”
唯は立ち上がった後も俯き、何やらもじもじしている。
多分今の俺も、顔を赤くしながらもじもじしているのだろう.....
.....やめよう...男が顔を赤くしてもじもじしても気色悪いだけだ.....
「ほれ、唯。俺は寝不足で眠いから今日は寝る。お前も眠いんだったら、
ちゃんと自分の部屋で寝ろ...んな所で眠ったら風邪ひくぞ。」
俺はなるべくいつもと同じように言い放ち、唯の頭を軽く”ぽん”と叩くと自分の部屋へと戻る。
部屋の扉を閉める瞬間、唯の顔がちらっと目に入った。
.....唯は安心したように微笑んでいた.....

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