同級生2

折れた翼<後編>
<Story Of Sakurako Sugimoto & Yui Narusawa>



1月3日


1月3日 AM8:00

”.....けじめを付ける為に.....あの場所に行ってみよう....
最後にあの娘と会った、あの場所へ.....”


1月3日 AM9:00

「.....あれ?お兄ちゃん何処か出かけるの?」
朝、家を出ようとした所で呼び止められた。振り返ると....振り返るまでもないが、
そこには唯が立っていた。
「ん、ああ。ちょっとな....」
俺は曖昧に答えた。もし買い物とかに行くのなら、唯を連れていってやっても良いのだが、
これから行く場所が場所だけに答える訳にはいかない。
だが唯は、心配そうな顔をすると俯き、小さな声で尋ねてきた。
「...唯も.....一緒に行きたいな.....」
二三日前までの唯なら、寂しそうな顔はしても”一緒に行きたい”などとは言い出さなかっただろう。
だが一昨日の晩以来、よっぽど俺の事が心配なのか、唯はいつも俺の後を付いて回っていた。
”.....俺が自殺でもすると思ってんのかな....”
俺は苦笑いを浮かべた。
「ちょっと出かけてくるだけだ。昼までには帰ってくるよ。」
俺は唯の頭に手を乗せると、髪の毛をクシャッと握るように撫でる。だが唯は、相変わらず
心配そうな顔で俺を見ている。
「.....何処に行くかも教えてくれないの?」
”.......ふぅ”
俺は大きくため息を吐いた。唯に言えないような場所に行く訳ではないのだが、場所が場所
だけに、唯には言いづらい。言ったとしても、唯だって良い気はしないだろう。
「.....お兄ちゃんと...一緒に行く。」
唯は苦笑いを浮かべている俺を、上目遣いで見上げるとそう言った。まるで駄々っ子のようだ。
唯の言葉に一瞬躊躇した俺だったが、
”.....けじめを付ける為には....それも良いかもしれないな....”
そう思い唯の頭を軽く叩きながら言った。
「じゃあ一緒に行くか....俺が彼女と最後に会った場所......あの森へ....」


1月3日 AM10:30
鳴沢 唯

.....もしあの時お兄ちゃんを引き止めていたら、こんな事にはならなかっただろう....
多分、唯が
”行かないで欲しい”
ってお願いしていたら、お兄ちゃんもあの場所には行かずに、唯の側に居てくれたと思う....
でも....今唯の側にお兄ちゃんは居ない......
お兄ちゃんが唯の側から離れていったんじゃなくて、唯がおにいちゃんの側から離れたんだ...
あの場所に居たくなかったから......
”あの人”の側に居るお兄ちゃんを見たくなかったから.......


1月3日 AM10:00

「.....ここが...」
立ち止まった俺のすぐ後ろで、唯が小さく呟くのが聞こえた。だが俺は、唯の言葉には答えずに、
あの日彼女が立っていた場所をじっと見詰めていた。
”..........”
もう彼女がこの世には居ないと言う事は分かっていても、今にも彼女があの木の影から
出てきそうな....そんな錯覚にとらわれる。
けじめを付けに来たはずなのに..........
彼女がこの世に居ないと考えるだけで、全てを壊したくなるような虚無感に襲われる...
その時、不意に俺の体を誰かが背後から抱きしめた。我に返る俺。
「......お兄ちゃん.......そんな顔したら駄目だよ.......」
唯は俺の最中に顔を押し付けるようにして呟いた。唯には背中を向けていたはずなのに、
俺が今どんな顔をしているのか分かったらしい.....
「....唯....」
俺は答える代わりに、背中から回された唯の手に、俺の手をそっと重ねた。
一瞬驚いたように腕に力を込めた唯だったが、直ぐにその腕から力が抜ける。
「.........うん...お兄ちゃんの気が済むまで.....ここに居ようよ。
......ずっと....唯が側に居るから......」
背中から俺を抱きしめたままそっと呟く唯。だが俺は、小さく首を横に振ると背中から回された
唯の手を掴み、ゆっくりと俺から引き離す。
「もう.....大丈夫だよ。家に帰ろう.......」
そう言って俺は唯を振り返り......動きが止まった。唯の後ろ....5m程の場所に
立っていた人物.......
それは紛れもなく.....


1月3日 AM10:20
鳴沢 唯

「.........うん...お兄ちゃんの気が済むまで.....ここに居ようよ。
......ずっと....唯が側に居るから......」
お兄ちゃんが...その人の事を思い出に出来るまで.....ずっと一緒に居たい....
誰よりも...お兄ちゃんの近くに居たい.....
だけどお兄ちゃんは、唯の手をそっと振りほどいた。
”どうして......”
お兄ちゃんが遠くに行っちゃうような気がして、悲しい気持ちになる。
でも、それは唯の思い違いだった。
「もう.....大丈夫だよ。家に帰ろう.......」
お兄ちゃん声は、今まで聞いた事がなかったほど優しかった。
唯は安心して、お兄ちゃんから一歩離れ、お兄ちゃんが振り返ってくれるのを待った。
一瞬の後、お兄ちゃんがゆっくり唯の方を振り返った。微笑みを浮かべながら唯を見ている
お兄ちゃん。だけど...不意にお兄ちゃんの目が驚きに見開かれた。
そして、お兄ちゃんの口からこぼれた言葉は....
「桜子..ちゃん......」


1月3日 AM10:25

...夢でもいい.....幻でもいい......たとえ幽霊でもいい..........
辛くて、悲しくて、どうしても逢いたいと思った女性がそこに居た.........
「りゅうのすけ君......やっと....会えた.....」
彼女は穏やかに微笑みながらそう言った。だが俺は何も答えず、まるで夢遊病者のような
足取りで彼女の元に歩み寄った。そして、ただ彼女を強く抱きしめた。
「え?りゅうのすけ君!?」
彼女が驚いたような声を上げる。それでも俺は彼女を抱きしめた腕の力をゆるめない。
「.....りゅうのすけ君.....」
やがて彼女はゆっくりと、その細い両腕を俺の背中に回した。
......この腕の中にある彼女のぬくもり.......紛れもない現実.......
”彼女は.....生きていた.......”
涙が溢れそうになるのをじっとこらえる。彼女に聞きたい事がたくさんあったのに、
声を出すと涙が溢れてしまいそうで何も言えない。だから俺は彼女を抱きしめつづけた。
決して、俺の側から離れないように......決して、俺が側から離れないように.....
.....だから俺は気が付かなかった....
唯が、悲しみに顔を歪めながら音もなく立ち去った事を.......
もし時を戻す事ができ、この時間に戻ってこれたなら.......
俺は立ち去る唯の後を追いかける事が出来ただろうか......



1月4日
不思議な夢を見た.....
一羽の鳥が、自由に大空を駆け巡っていた.....
雨の日も、風の日も、何者にも縛られず、ただ自由に空を翔けていた...
でもその鳥は、翼に怪我をしてしまって...
地面に降り立ち、悲しそうな...虚ろな瞳で空を見上げてた......
でも、何日かすると翼の傷も癒え、鳥はまた大空に帰っていく....
そして二度と、唯の前に姿をあらわす事はなかった.....


1月4日 AM 8:00

ドアをノックする為、右手を上げ.....下ろす。
先ほどから何度も繰り返している事だ。
「.......唯。」
小さく声に出してみる。部屋の中に居るであろう、唯に聞こえた事を祈って。聞こえない事を祈って。
”...何をやってるんだよ、俺は.........”
再び右手を上げる。だが、そこから先に進むための勇気が出てこない。
唯に会って何を言うつもりなのか?
何を言いたいのか?
分からない.......
一度はあんなにも身近に感じられた唯が、今は遠くに感じる。


1月4日 AM 8:00
鳴沢 唯

目が覚めて、自分が泣いてた事に気づいた。
何故、泣いていたのかは分からない......
今の唯にはどうでも良い事だった。
”......何でこんな事になっちゃったのかな.....”
一度はあんなに身近に感じられたお兄ちゃんが、今は遠くに感じる.....
.....お兄ちゃんの隣に、あの人が居るから。
あの人の隣に居るお兄ちゃんを見ていたくなかったから.....
そして.....唯は一人になった........


1月4日 PM12:40

「...............」
そこには誰も居なかった。
いつもだったらリビングに居て、俺が出かけようとすると
「お兄ちゃん、何処へ行くの?」
と問い掛けてくる唯の姿が今日はない。
昔は煩わしく感じていた唯の言葉。
それがない事に.....今は寂しさを感じる。
...........
”自分勝手な奴だな、俺って.....”
苦笑いを浮かべ、俺は家を後にした。


1月4日 PM 12:55
杉本 桜子

昨日...病院に行ってみて良かった.......
もし行っていなければ...二度とりゅうのすけ君に会えなかったかもしれない。
りゅうのすけ君は、私が死んだと思ってたらしいから。
看護婦さんたちが、私の飼っていた鳥、ターボが死んだ事を話していたのを、
私の話だと勘違いしたらしい。
でも...嬉しかった........
りゅうのすけ君には悪いけど、私の為にりゅうのすけ君が泣いてくれて...
本当に嬉しかった......
だから....早く会いたい.......
会って私の気持ちを伝えたい......
あなたの事が....好きです。


1月4日 PM 12:55

桜子ちゃんとの待ち合わせの5分前、俺は駅前に着き、その姿を探した。
”........居ない.....”
辺りを見回したのだが、彼女の姿を見つける事は出来なかった。
.....ちょっとだけ、ほっとする。
正直、今の俺はどんな顔で彼女に会えば良いのか分からない。
彼女の事だけを想っていた時なら、何の問題もなかった。
素直に笑っていれば良かったのだから。
だけど今は.....俺の中には唯も居る。
桜子ちゃんが大事なように、唯もまた......
そんな状態でどんな顔をすればいいだ?
笑っていればいいのか?
”......出来るわけないよな....”
思わず苦笑いを浮かべる。
俺はそんな器用な人間じゃない。
それに、彼女の前で偽りの笑顔を浮かべたくはない。
桜子ちゃんに対する想いも、本当の気持ちなのだから.......


1月4日 PM 12:57
杉本 桜子

りゅうのすけ君が駅前できょろきょろしている。
でも、私の姿は見つけられない。
だって私は、建物の影に隠れているのだから。
...目立つ所に居たら、男の人が声をかけてきたから。
私はりゅうのすけ君に声をかけようとした。
だけど......声をかけられなかった.....
りゅうのすけ君の顔が、凄く辛そうだったから......
りゅうのすけ君のあんなに辛そうな顔は見た事がない......
その時になってはじめて気付く。
私は...りゅうのすけ君の事を殆ど知らない。
私が知っているのは.....病院に来てくれた時のりゅうのすけ君だけ。
それ以外の事は...殆ど知らない。
もちろん、りゅうのすけ君は色んな事を話してくれた。
学校であった事、町中であった事......
だけど、りゅうのすけ君の家族の事は......
まだ一度も聞いた事がなかった。
りゅうのすけ君の口からは。
前に一度、お母さんにりゅうのすけ君の事を話した事があった。
その時、お母さんは言っていた。
”りゅうのすけ君は、同級生の女の子と同棲しているのだと。”
私は信じない。
...たとえ本当だとしても、私の気持ちは変わらない。
りゅうのすけ君の優しさが、決して偽りじゃない事を知ってるから。


1月4日 PM 1:00

「りゅうのすけ君....」
町のざわめきに混じり、桜子ちゃんの小さな声が聞こえたような気がした。
だが....辺りを見回しても、桜子ちゃんの姿を見つける事は出来ない。
その時もう一度
「りゅうのすけ君....こっちよ...」
今度は確かに聞こえた。俺は声のした方に向かって歩いてみる.....
....居た。
彼女は建物の影に、隠れるようにして立っていた。
「...桜子ちゃん?こんな所で何してるの?」
さっきまで、彼女にどんな顔で会えば良いのか悩んでいたのだが......
どうやらそんな必要はなかったらしい。
多分今の俺は、呆れたような顔をしているだろう...
そんな俺の顔を見て、桜子ちゃんは困ったような笑みを浮かべた。
「あのね...目立つ所に立ってたら、男の人が声をかけてくるから....」
.....なーるほど...
それはそうだろうな.....こんな可愛い子が一人で立ってたら、俺だって声をかけるだろう。
「俺が側に居れば大丈夫だから。」
自然、微笑みながら彼女に右手を差し出す。
彼女は2,3回、辺りを見回すと恐る恐る表通りに出てくる。
その様子がおかしくて....俺は思わず吹き出してしまった。
「...笑わないで。私本当に恐かったんだから....」
そう言ってむくれる桜子ちゃん。
今まで彼女のそんな顔は見た事なかったけど...やっぱり可愛いと思う。
俺は一言
”ごめん”
と謝った後
「何処か行きたい所、ある?」
と尋ねた.....

「ちょっと寒いけど......ここなら人は居ないから。」
”りゅうのすけ君に聞いて欲しい事があるの...静かにお話できる所に....”
と言った桜子ちゃんのリクエストに答え、俺と桜子ちゃんは八十八海岸に来ていた。
夏場になると、かなりの賑わいを見せるこの八十八海岸だが....
さすがに冬は人が居ない。
「...で、俺に話したい事って?」
ここに来るまで、ずっと無口だった桜子ちゃんに尋ねる。
「......あのね.....私の夢の事....」
.....そう言えば.....あの夜...病院の裏の森で会った時、彼女は言っていた。
”.....今は言えないの...もっと...勇気が出せたら...
その時は聞いてくれる?叶った夢とまだ叶っていない夢。”
彼女の、叶った夢と叶っていない夢の事。
俺は黙ってうなずいてみせた。
「......私の...叶った夢は....大好きな人に抱きしめてもらうという事。」
「...........」
「そして....まだ叶っていない夢....これから叶える夢は..私の気持ちを伝える事。」
「...........」
「私は.....あなたの事が好き。」
...........
今の俺は、どんな顔をしているんだろう.....
自分でも分からない....
多分、情けない顔をしているんだろう.....
それでも.....ちゃんと言わなくちゃいけない.....
「.....ごめん...今はまだ、返事をする事が出来ないんだ.....」
彼女の顔をまともに見る事が出来ない。
......彼女は、泣いているだろうか...
それとも、怒っているだろうか.........
だけど、彼女から発せられた声は、俺の想像していなかったものだった。
「...昨日...森で会った女の子の事?」
あまりにも穏やかな声に、思わず彼女を振り返る。
彼女は、真っ直ぐに俺を見つめていた。
泣いているでもなく、怒っているでもなく、ただ穏やかに微笑んでいた....
「...俺の...家族の事を聞いてくれるかな?」
「.....教えて欲しい..」
微笑んだままうなずく彼女。
それから......俺は彼女に全てを話した。
8年前に母親を亡くした事。
美佐子さんと唯が家に来た事。
.....今の俺は、桜子ちゃんと同じくらい、唯の事が好きだと言う事。
その事を言った時も、彼女はただ黙って微笑んでいた。
そして...全てを語り終わった後、彼女が言った言葉は.....
「何があっても...私はあなたの事が好きだから....」



1月5日


1月5日 AM 2:00

俺は何もせず、目を閉じ座っていた。
崖の下から聞こえる波の音と、潮の匂いだけが今、海に居る事を教えてくれる。
”...........”
何も...考えたくない........
唯の事、桜子ちゃんの事、そして俺自身の事......
考えれば考えるほど、分からなくなってくる......
俺の中に住んでしまった二人の女性。
もし、桜子ちゃんと出会っていなければ.......
もし、彼女が死んだなんて勘違いをしなければ......
もし、彼女と再会するのがもう一日遅ければ......
ここまで悩む事はなかったのかもしれない。
だが、俺は彼女に出会ってしまった。
俺が唯の事をどう思っているか自覚する前に。
俺は彼女が死んだと勘違いしてしまった。
そして唯に対する自分の気持ちに気づき....
彼女と再会してしまった.....
もし、後1日遅ければ彼女への気持ちを思い出として整理出来ていたかもしれない。
だが、現実に”もし”はありえない。過ぎてしまった時間(とき)が戻る事はない。
例え誰かを傷付けようとも、俺は進むべき道を選ばなくてはいけない。
「俺が選ぶべき道は.....」
足に力を入れ、一気に立ち上がる。
.......もし、今の季節が夏であればこんな事にはならなかっただろう。
長時間、冬の夜風にあたっていた為、凍えきっていた俺の体はバランスを崩し......
崖から落下した......


1月5日 AM 3:00
鳴沢 唯

眠れぬまま夜を過ごす.......
お兄ちゃんと話し合えないまま.....
お兄ちゃんは昨日の朝、家を出ていったきり帰ってこない....
あの人と会っているんだろう.......
...どうして、唯じゃなくてあの人なの?
唯じゃ駄目なの?
.........悲しくて.....悔しくて.......
泣き出しそうな心を必死になって押さえる......
その時
”トゥルルルルルルルルルル トゥルルルルルルルルルル”
電話の音が聞こえた。
お兄ちゃんだろうか?
.......違う。お兄ちゃんはこんな時間に電話なんてかけてこない。
しばらくして、電話の音は鳴り止む。多分お母さんが電話を取ったのだろう。
そして.....
「唯!!早く用意して!!りゅうのすけ君が!!」
こうして、唯の人生で一番長い一日がはじまった......


1月5日 AM 8:30
杉本 桜子

受付を済ませ、検査の順番が回ってくるまで椅子に座って待つ.....
あらかじめ予約を入れておいたので、10分ほど待てば私の番になるだろう。
”...............”
何もしていないと、どうしても昨日の事を思い出してしまう......
”私は.....あなたの事が好き。”
”.....ごめん...今はまだ、返事をする事が出来ないんだ.....”
.....りゅうのすけ君の心の中には私以外の女の子が住んでいる....
あの日、森の中で出会った女の子......
8年間、りゅうのすけ君と同じ家で暮らし、同じ時間を過ごしてきた人......
名前は.....鳴沢...唯さん......
多分、りゅうのすけ君は唯さんの事が好きなんだろう。
そして、唯さんもりゅうのすけ君の事が......
でも、私はりゅうのすけ君を好きになった事、後悔なんてしてない。
私はもう、りゅうのすけ君からたくさんの物を貰ったのだから。
彼が私を励ましてくれたから、退院する事が出来たのだから。
だから.....もう彼に会う事は出来ない.......
彼が苦しむ姿を見たくないから......
私が居なくなれば、彼は苦しまなくて済むのだろう.....
それが、私が彼にしてあげられるただ一つの事。
...でも...私が居なくなったら....少しだけ悲しんで欲しい.....
そうすれば、あなたが私の事を好きであってくれたと言う事を胸に、
一人で頑張っていけるから.......
あなたが居なくても.....大丈夫....だから.........
「.............」
それまで堪えていた涙が、頬を伝って落ちる......
周りの人に気づかれてはいけないと、下を向いたけど........
「......大丈夫?気分でも悪いの?」
遅かった。私の隣に座っていた30歳位の女の人が、心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
「だ、大丈夫です.....何でもありません....」
必死にそれだけ答える。するとその女性(ひと)は一瞬だけ私の瞳を見詰め、穏やかに微笑んだ。
「そう...それなら良いのだけど...でも、悲しい時は無理をしない方がいいわよ。」
”.....え?”
驚いて顔を上げる。どうして私が悲しんでいると思ったのだろう.....
場所が病院でなければ、涙=悲しいと思われても驚いたりしない...
でも........
私の視線に気づいたのか、その女性は再び穏やかな微笑みを浮かべ
「この歳になるとね、色々な経験をするものなのよ。
だから...私も昔、今のあなたような経験をした事があるの。」
......不思議な女性.....
何処までも澄んだ瞳........
暖かくて.....見つめていると、心の中まで見透かされてしまうような.....
でも、決して嫌な気持ちにならない.....
「悲しい事があっても、立ち止まったら駄目。まっすぐ前を向いて歩いて...
そうすれば、強く...優しくなれるから.......」
「......はい。」
気が付くと、私は素直にうなずいていた。
多分.....この女性が暖かい人だと分かったから.......
りゅうのすけ君と同じで、強くて、優しくて、暖かい人だと分かったから.....
そして、私はすぐにその考えが正しかった事を知る。
「鳴沢美佐子さん。」
受付から聞こえてきた声に、その女性が立ち上がる。
...8年間、りゅうのすけ君を育てた人。それがその女性の名前だった。


1月5日 AM 8:50
鳴沢 唯

お兄ちゃんの手術がはじまってから既に6時間近く経っていた。
今朝、たまたま釣りに来ていた人が崖から落ちたお兄ちゃんを見ていて、救急車を呼んでくれたらしい。
病院からの連絡を受け、唯とお母さんが来た時には既に、手術は開始されていた。
お兄ちゃんの容体は....両腕の骨折と....内臓破裂.....
お医者さんの話だと、助かる確率は.......2割.............
その事を聞いた時、唯は泣かなかった。
お兄ちゃんは強い人だって信じてたから。
泣いちゃったら.......本当にお兄ちゃんが居なくなっちゃうと思ったから。
だから唯は、ずっと手術室のドアを見ていた。
お母さんが、お兄ちゃんの入院手続きをする為に1階受付に行った後も。
ただずっと、助かる事を信じてドアを見つめていた.......
そのまま、どのくらい時間が経ったのだろう........
気が付くと唯の横にはお母さんが立っていた。
「....大丈夫だよ、お兄ちゃんは。きっと.....」
自分自身に言い聞かせるように呟き、そして....お母さんの横に立っている女の子に気づいた。
その女の子は目を見開き、黙ってドアを見つめていた。
......杉本...桜子さん...
何故桜子さんがここにいるかのかは分からない....
一つだけ分かった事は....
桜子さんも、唯と同じくらいお兄ちゃんの事が好きだと言う事。
彼女は....唯には気づかず、ドアの前までフラフラと歩き......
ひざを付き.........
「......ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
悲しみの叫びを上げた....


1月5日 AM 9:00
杉本 桜子

見慣れているはずの白い廊下。
見慣れているはずの”手術中”の赤いランプ。
だけど...こんな気持ちでこの光景を見たのは今日が始めてだった....

”もしかして....りゅうのすけ君の...?”
”....りゅうのすけ君を知っているの?”
”.....私は....”
”...もしかして...杉本桜子さん?”
”え?どうして....”
”唯から....娘の唯からあなたの事を聞いた事があるから...”
”....唯さん...が?....”
”......あなたには話さないといけないわね。りゅうのすけ君が....”

信じられなかった。
信じたくなかった。
気が付くと私は、手術室のドアの前に立ち、そこに両手を付いていた。
手術室のドアは冷たかった....
その感覚が、これが現実だと言う事を私に教える。
今、このドアの向こうにりゅうのすけ君が居る......
...........
木の上から、私を見つめるりゅうのすけ君の優しい瞳.....
私が笑うと、彼も嬉しそうに笑ってくれた.....
私の体調が悪くなると、彼は心配そうに私を見つめていた...
...まだ覚えている...彼の温もり.....
優しくて...強くて....暖かくて...
優しくて.強くて.暖かくて優しくて強くて暖かくてやさ..つよ..あ....
.........嫌......いや......死んじゃ.....いや.......
..........死ん...じゃ........
いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや
いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!
「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
嫌嫌嫌!!!りゅうのすけ君死んじゃいやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!


1月5日 AM 8:55
鳴沢 唯

「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
唯の前で泣き崩れている女の子.....杉本桜子さん......
何故こんなに悲しそうなんだろう.........
お兄ちゃんは大丈夫だよ.......
お兄ちゃんは強いんだから.............
桜子さんや唯を残して死んだりしないんだから.......
絶対......絶対大丈夫なんだから........
泣いている桜子さんの肩にそっと手を乗せる。
「大丈夫だよ.....お兄ちゃんは強いんだから.....」
唯の声が聞こえたのか、桜子さんは振り返り、唯の顔をじっと見詰める。
「お兄ちゃんは大丈夫だよ。だから泣かないで。あなたが泣いたら、お兄ちゃん悲しむから。」
泣いている桜子さんを、そっと抱き寄せる。
お兄ちゃんと...唯と同い年の女の子.......
......小さな身体.....
3年間も、ずっと病気と闘いつづけた強い女の子。
お兄ちゃんが守ろうとしていた女の子。
その背中に手を回し、ぎゅっと抱きしめる。
「大丈夫だから...大丈夫だから.....お兄ちゃんは大丈夫だから....」
何度も囁きつづける.......
瞳から、涙が溢れ続けている事にも気付かずに.........


1月5日 AM 8:55
杉本 桜子

「大丈夫だよ.....お兄ちゃんは強いんだから.....」
........優しい声がする..........
.......誰?
ゆっくりと振り返る......
そこに居たのは.......鳴沢.....唯さん......
彼女は優しい瞳で、私の顔をじっと見詰めていた。
「お兄ちゃんは大丈夫だよ。だから泣かないで。あなたが泣いたら、お兄ちゃん悲しむから。」
りゅうのすけ君が何故唯さんの事を好きなのか....少しだけ...分かる....
瞳から涙を溢れさせながらも、りゅうのすけ君の事を信じてる......
....強い人.....優しくて....暖かい人.....
唯さんに言われると、本当に大丈夫な気がする.......
「大丈夫だから...大丈夫だから.....お兄ちゃんは大丈夫だから....」
.....うん....大丈夫だよね....りゅうのすけ君は強いから.....
だから.....唯さんも泣かないで.......
りゅうのすけ君が起きたら.......二人で笑いながら言ってあげよう...
”おはよう、りゅうのすけ君。りゅうのすけ君はお寝坊さんだね”
って.....



1月6日

長い間、夢を見ていたような気がする.......
夢の中で........
朝起きて、リビングに降りていくとテーブルで唯と桜子ちゃんが楽しそうに話してて...
何の話をしていたのか聞くと
”女の子同士の内緒話”
って教えてくれなくて......
”仲間はずれにするなよ!!”
って言っても..楽しそうに笑ってて....
そんな二人を見るのが嬉しくて、俺も一緒になって笑って.....
俺達は夢の中で.....仲良く暮らしてた........


1月6日 AM 9:00

窓から差し込んでくる日差しが眩しくて、手で遮ろうと思った....
でも、何故か腕が動かない........
身体の感覚も何やらおかしい.....
..............
そう言えば...俺って崖から落ちたんだっけ......
それじゃ......俺は死んだのか?
...いや.....生きてるような気がする....
確かに腕は動かせないけど、その重さは感じられる......
試しに指を動かしてみる....
うん、指先はちゃんと動くな.....
次に足を動かしてみる......
足自体は何かに固定されているのか、全然動かないけど....足の指は動く.....
....うん、やっぱり生きてる。
よし、目を開けてみよう。
瞼に力を入れ、そっと開いてみる....
最初に目に入ったのは眩しい光。
そして.....光を遮り、俺の顔を覗き込んでいる二つの顔。
.........やっぱり俺は死んだのかな?
天使が二人、俺の顔を覗き込んでる.....
そして.......
『おはよう、りゅうのすけ君。りゅうのすけ君はお寝坊さんだね。』
二人の天使は、涙を流しながら最高の笑顔を見せてくれた....



半年後

「お兄ちゃん。荷物、唯が持ってあげるね。」
「あのな.....俺はもう大丈夫だから...自分で持てるって。」
俺の言葉を無視して、唯が俺の荷物を引っ手繰る。
「あ、唯ちゃん.....私にも半分持たせて。」
「うん。じゃあ、こっちをお願いね。」
「...返せ。自分で持つ...女の子に荷物を持たせたりしたら男が廃る。」
二人から荷物を奪い返そうと手を伸ばすのだが.....
「りゅうのすけ君。傷はふさがったとは言え、腕のギブスは取れてないのよ?
あまり無茶はしないで....」
涙目になって俺をじっと見詰める桜子ちゃん。
「桜子ちゃんの言う通りだよ。お兄ちゃんはただでさえ無鉄砲なんだから、
たまには唯たちの言う事も聞いてよ。」
恨めしそうに俺を見つめる唯。
.......はぁ、あんだけ世話になっちまったんだから逆らえないよな.....

今日は俺が退院する日。
崖から落ち、一時はかなり危ない状態だったらしい。
それでも何とか助かり.....
それからの半年間、殆ど毎日二人が見舞いに来てくれたのだ。
手の使えない俺に、ご飯を食べさせてくれたり.....
身体を拭いてくれたり.....
もっとも、服を着替えさせてもらうのだけは遠慮したけどな。
そんなこんなで俺の身体も良くなり、今日に至るわけだ。
ただ、崖から落ちた時に両手で頭をかばった為、両手は未だに使えない。
医者の話では、しばらくのリハビリが必要だそうだ。
まぁ、気長にやるさ。
そんな事を考えていると....

「あーーー!!!お兄ちゃんこんな本読んでーーー!!!」
不意に上がった唯の叫びで我に返る。
いつのまにか唯は俺の荷物を漁り....
......げっ!!!あれは病院の売店で買ったエロ本!!
「りゅうのすけ君の.....エッチ...」
さ、桜子ちゃん!?そんな目で見ないでくれ〜!!
これは男の性なんだ〜!!
「怪我人なのに....こんな本読んで.........
これだから男の人って嫌だよね...」
唯は桜子ちゃんに目配せし...二人で
”うんうん”
とうなずきあっている。
「こらーーーーー返せーーーー!!!」
奪い返そうとする俺。だが、半年間殆ど寝たきりだった俺の身体は言う事を聞かず...
バランスを崩し、壁に熱烈キッス。
そんな俺を見て二人は...楽しそうに笑った。
「...ちくしょーー....人の不幸を笑いやがって....」
そう言いながら俺も、一緒になって笑った。

結局俺は、どちらか一人を選ぶ事は出来なかった。
今は三人で居るのが楽しい。多分、唯も桜子ちゃんもそう考えているだろう。
いつかは終わりが来る関係だろうけど.....それまではこのままで居たい。
俺達の気持ちが変わらない間は....
ずっと....ずっと.....

折れた翼 完

☆感想はこちらまで☆

お名前:

メールアドレス:

ホームページ:(お持ちであれば)

感想対象SS:(変更せず送信して下さい)

メッセージ:


綾辻プー助さんのホームページはこちらへ

中編へ戻る

戻る