ふとふり返ると 近藤喜文画文集
1998年3月31日 初版発行 徳間書店 2300円 ISBN4-19-860832-6
月間アニメージュに連載されていた、近藤さんの画文集です。
ふと見た光景を近藤さんの優しい線使いと色鉛筆で描いた作品を
集めています。1992年〜1997年ずっと連載され、亡くなった時の
作品まで収録されています。この「ふとふり返ると」は見ていてホっとします。
もし、このアニメーションをみて・・・・・・
「あんなところがあったら行ってみたくなった」と思う人がいたなら、
「それはどこかにあるのではなくてあなたのいるところ、
つまり、今、あなたがいる街(村が)
そうなのだ(そうだったのだ)」と答えたい。
―近藤喜文 スケッチブックに残された企画案より
近藤さんが、アニメーションの仕事の合間をぬってスケッチを描き始めたのは'92年頃。
自らがキャラクターデザイン、作画監督を担当した「おもひでぽろぽろ」の劇場公開も終わり、
宮崎駿監督の「紅の豚」の製作がそろそろ佳境に入っていた時期のようです。
当時、近藤さんが所属するスタジオジブリは、東京・吉祥寺にありましたが吉祥寺は
若者の街であると同時に、お年寄りから子供まで、さまざまな世代が混然と行き交う住宅地でもあり、
スケッチする対象には事欠かなかったようです。
'92年8月にスタジオジブリが東京・東小金井に移転してからは、スタジオや自宅周辺のほかに、
自らさまざまな場所を取材してスケッチすることも多くなってきます。
こうして描かれたスケッチをもとに、アニメーション専門誌『アニメージュ』で連載が始まったのは、'93年の9月号。
当初は描きためられたスケッチのなかから、季節やテーマにあわせて5,6点を選び、
近藤さんのコメントを活字にして掲載するという形式でしたが、やがて近藤さん自身が
鉛筆で文章を書くようになりました。
色鉛筆で、生き生きとあたたかく描かれた人々―とりわけ子供たちの姿に、多くの人が共感し、
静かに心を寄せました。
ひとつひとつの絵に集中したいという近藤さんの自身の意向により、1枚絵の描きおろしを掲載する
スタイルになったのは、連載14回目にあたる「アニメージュ」'94年10月号からのことでした。
1枚の絵を描くために、何枚ものラフを描き、少し色を塗っては、また新たにラフを描き起こし、
清書に近づけていく。時には何枚ものコピーを拡大縮小してとり、レイアウトを決める・・・・・・。
平日には仕事があるために、週末の休みをつぶしての作業でした。
「よい絵とはなんなのでしょう」―こんな問いを近藤さんが発したのはこの頃のことです。
近藤さんが「こんな絵を描けたら」語るとき、例としてあげるのは、アメリカの画家、ノーマン・
ロックウェル、子供のなにげないしぐさを描く絵本画家・林明子、そして明治時代に、江戸末期の
庶民の風俗を描いた鏑木清方といった人々の絵でした。それはいずれも、市井を生きる人々の
日常の姿が、静かに息づく世界でした。
ある日のこと、近藤さんは、寡作で知られる漫画家・高野文子の短編「奥村さんのお茄子」
(『棒がいっぽん』マガジンハウス刊・所収)のあらすじを、ゆっくりと時間をかけて説明してから、
言いました。
「自分が描こうとしているものが、ようやくわかってきたような気がするんです」
ある時、ある場所で、一瞬のすれ違い、別れた人々のしぐさのなかに、確かに存在していた
個性のきらめき、その生命のあたたかさ―
以後、近藤さんは「難しいんです」を口癖にしながらも、自らが描きたいと願う題材に、
次々に挑戦していきました。11月の澄んだ青空にのびる銀杏の木、その葉にこぼれる太陽の光、
風を受けてふくらむ鯉のぼり、幼少時代に見たという雄大な凧あげ・・・・・・。そして'97年12月、
'98年新年号用に描きあげた連載53回目の原稿が、このシリーズ最後の絵となりました。
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(C) Ryoukan